陰謀と犯罪のシェイクスピア
石井 美樹子著
立石 弘道
シェイクスピアの全三六作品中、悲劇は十一あるがそのうち四大悲劇は特に有名である。著者はシェイクスピア四大悲劇の訳を「「真訳 シェイクスピア」講義」と題して出版した。本書では四大悲劇の『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』だけでなく、さらに『冬物語』『リチャード二世』『ロミオとジュリエット』の三作品を取り上げ、これらの作品から読み取れる政治的、社会的現象としての「陰謀と犯罪」の側面から論じている。
翻訳を利用して読む一般読者は別として、英文学の研究者・学生はアーデン版やオクスフォード版やケンブリッジ版の詳しい注釈付きの原書を使用するだろう。だが著者は師の大山俊一教授に倣って、一語一語をOED(オクスフォード英語辞典)を参照して読み進めたという。収録語句六〇万語以上の世界最高のOEDは聖書に次いでシェイクスピアの作品からの語句の収録が多いという。OEDに基づく読みが英国人と対峙できる優れた読み方であり「真訳」だと。
ところで本書で著者が主眼を置くのはシェイクスピア劇中に散在されている王位簒奪や暗殺の場面である。それらは当時英国内で実際に起きた事件を反映しているという。例えば毒殺を一例として取り上げよう。『ハムレット』は毒殺劇の最高峰であり、最終章で主要登場人物の全員が毒で死ぬ。著者は某小説家の言を引用して「毒殺は英国人の気質とは相いれず、嫌悪感を抱かせた」ので、エドワード三世の治世(一三二七―)からヘンリー八世の治世(一五〇九―一五四七)までの二二〇年間に毒殺で有罪となった判例の記録はないという。だがヘンリー八世の治世が始まると旧教と新教間の軋轢が始まり、一五三四年の英国国教会の設立を皮切りに、新旧入り乱れての争乱に発展して、ついには一五八七年、スコットランド女王であったメアリーが王位簒奪の嫌疑で処刑されるに至る。シェイクスピア(一五六四―一六一六)二三歳の頃である。当然観客は現実の事件の反映として観劇したのである。
当時のロンドンの人口は約二〇万人で市の内外に一六の劇場があり、グローブ座の三〇〇〇人収容の大劇場や、貴族や高官の邸宅の大広間や法学院の広間・旅籠の庭等で上演された。なぜかくも盛んであったかというと、新聞もない当時の英国における演劇は現在のマスメディアにあたる。劇作家や俳優は劇場という言わば現在のテレビ界の作家・演出家・有名タレントの役を担っていた。劇作家・俳優は当然、時の官憲の監視のもとで命を懸けて演じたのである。有名な劇作家、ベン・ジョンソンは決闘による殺人やカトリック教徒の嫌疑も含めて数回投獄されるし、『スペインの悲劇』の作者トマス・キッドも無神論者の嫌疑で投獄される。政府を侮辱した嫌疑や劇作家同士の決闘などで若くして落命した劇作家や俳優はあとをたたない。シェイクスピアの作品をより深く理解するには、教科書には記述されない陰謀や犯罪などの、作品を支えている社会史にも通じていなければならないということを本書は実によく教えてくれる。
期せずして、銀座の松竹演舞場で稀代の演出家故蜷川幸雄氏が石井のシェイクスピア訳を絶賛していたが、石井訳の『リア王』が中村芝翫主演で九月六日から二二日まで上演になる。幸い河出書房新社から文庫版で石井訳『リア王』が八月に刊行済だ。秋の読書の手始めに文庫版を片手に観劇するのも初秋の銀座の景の一コマとして様になるのではないだろうか。(たていし・ひろみち=元日本大学教授・英文学・比較文学/文化)
★いしい・みきこ=神奈川大学名誉教授・中世英文学・演劇。ケンブリッジ大学専任講師を経る。イギリス史を中心に執筆・翻訳活動を行っている。訳書に『真訳シェイクスピア四大悲劇』『真訳シェイクスピア傑作選』など。
書籍
| 書籍名 | 陰謀と犯罪のシェイクスピア |
| ISBN13 | 9784309209470 |
| ISBN10 | 4309209475 |
