〈最後のユダヤ人〉
細見 和之著
佐藤 貴史
人はいかにして何者かになるのか――本書でとりあげられたプリーモ・レーヴィ、エリ・ヴィーゼル、パウル・ツェラン、アドルノ、アーレント、レヴィナスはナチス支配下での収容所、そしてホロコーストを通じて「作家」「詩人」「思想家」になっていった。著者はテキストに密着しながら、彼/彼女らの表現を読み解いていく。その背後には、もちろん明示的には語られ得ない暴力と記憶、そしてかつて体験した破局の痕跡があることも見逃さない。だからこそ、本書はテキスト分析一辺倒ではなく、彼/彼女らの生いたちや人間関係も効果的に配置されている。ホロコーストとの関係が後景へと押しやられていく最近のアーレントやレヴィナス研究について、著者は批判的である。
レーヴィは、アウシュヴィッツのような場に現れる「灰色の領域」について語っている。「端的に善人とも悪人とも呼べないようなグレーゾーン」であり、目に見えない錯綜した境界線が幾十にも引かれている世界では、あらゆるものが混乱している。ヴィーゼルは、解放後の「死の行進」の先で「灰色の領域」に足を踏み入れてしまう。彼の父は体力的にも精神的にも限界に達していた。父が寝ていた寝台の上の寝台にいたヴィーゼルは父の喘ぎ声を聞きながら、眠らざるを得なかった。目を覚ました時には父の寝床には別の病人が横たわっていた。ヴィーゼルは父を見捨てたのか、あるいは見捨てなかったのか。
「灰色の領域」は、一義的決定を断固として寄せ付けない極限状況である。しかし、「アウシュヴィッツのあと」であっても、いやあとだからこそ、このような両義性の思想は引き継がれていく。あまりに難解な詩を書くツェランであっても、彼は詩とは「対話的」であり、「投壜通信」だと言う。それは、いつかどこかの岸にたどりつくかもしれない。しかし、著者が別のところでも書いているように、投壜通信とは難破船の船乗りが一縷の望みをかけて家族や恋人に宛てて行った決死の行為であり、それが誰かの手に届くことなど何ら保証されていない。ツェランの「投壜通信」は、果たして他者の「心の岸」にたどり着いたのか。著者はツェランの詩を、彼に代わって「対話的」に読み解いていく。
『否定弁証法』の著者アドルノは、哲学的にも同一性の思想に抵抗したが、彼はカトリックの洗礼を受け、自らを「ユダヤ人」と自己規定しない立場から「アウシュヴィッツのあと」について被害者、そして加害者の立場から問い続けた。ホロコーストがヨーロッパ文明の一つの帰結であれば、自分もまた被害者であり加害者であると。
アーレントに関しては興味深い。『エルサレムのアイヒマン』をめぐり、「ユダヤ人への愛」が欠けていると非難するショーレムとの論争において、彼女は「ユダヤ人にたいするその愛は、私自身がユダヤ人であるために、私には疑わしく思われます」と返答する。しかし他方で、彼女はあるインタビューの中で「ユダヤ人として攻撃されるときには、ユダヤ人として自分を守らねばならない」とも述べている。自分のユダヤ性について積極的に語ることのないアドルノに物足りなさを感じたかもしれないと書きながら、著者は「私は結局のところ、政治的にはアーレントの主張が正しいと受け止めている」と言う。本書では、著者による一人称での主張や、時に著者の印象や推察が大胆に展開されている。細見の肉声をぜひ聞きとってほしい。
最初の問いに戻ろう。人はいかにして何者かになるのか――収容所、ホロコーストを経て「作家」「詩人」「思想家」になった者もいれば、絶滅収容所の中で名前を剝奪され、何者でもない者になって殺されていった人間たちもいる。ホロコーストに関するドキュメンタリー映画『ショアー』に残された証言には、多くの「小さな付箋」が付されていると言う。何者でもない者にされてしまった人々の記憶を、その付箋は呼び起こすことができるのか。文学と思想もまた同じ問いの前で試されている。(さとう・たかし=北海学園大学教授・思想史)
★ほそみ・かずゆき=京都大学教授・ドイツ思想、詩人・大阪文学学校校長。著書に『アドルノ』など。
書籍
| 書籍名 | 〈最後のユダヤ人〉 |
| ISBN13 | 9784120060137 |
| ISBN10 | 4120060136 |
