ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 417
批評「愛する技」の意味するもの
JD 絵画を鑑賞する際には、全体を感じ取らなければいけません。また、時々近づいてみて細部を観察する。あるいは一つ一つの構成などの要素を確認し、何が表現され、その中で何が起きているのかを見ることも大事です。しかし、絵画から受けた印象、絵画が表現するもの、観察する中で変化していく印象などが、作品と向き合う上では本当に大切なのです。
HK それは、単なる個人の好みになってしまう恐れもあるのではないでしょうか?
JD 私は、大昔に「愛する技」という批評文を書いたことがあります。私の批評文を集めた書籍のタイトルにもなっています。つまり、私の行なってきた批評家の活動を表す言葉として非常によく知られたものです。映画批評とは、自分が良いと感じた作品の奥底まで接近していく方法です。他の人々は映画批評に対して違う見方を持っているかもしれませんが、私は少なくとも、そう考えています。まずは自分自身の感性があり、映画作品に対する情熱がなければいけない。しかし、そんなふうにして気に入った作品を、「あのシーンが凄かった。あの女優の演技が良かった」などと、多くのシネフィルが行うようにして、無我夢中で話すだけでは不十分です。ただ、その情熱は映画を理解するための第一歩ではあります。
そして、情熱と同時に、ある程度の明晰さが必要とされます。その明晰さとは、作品との距離を測るようなものでもあります。つまり、作品の内部でいかなる演出がなされているのか、映像にどのような要素が映り込んでいるのか、または何が起きているのか、何を自分は感じとっているのか、それらを冷静に分析し評価する能力であり、情熱をある程度制御する能力でもあります。単なる知識とは異なります。
映画に対する情熱を持たない人々は、機械的に映画を見てしまっています。まるで大学の歴史学者が資料を整理整頓するようにして映画を見てしまう。映画作品の些細な細部や文脈にばかりこだわり、映画そのものに向き合うことができない。それは映画を作る人々も同様で、映画を物語などの情報を伝えるだけの工業製品のようにして考えている人もいます。それは芸術としての映画ではありません。手技だけで作られた〝美しい映画〟が、世の中には溢れています。いわゆる映画の職人芸として評価されているものです。ゴダールの言い方を借りるなら「職業の専門家」たちによって作り上げられた、商品としての映画です。私が「愛する技」を書くに至った背景には、そうした問題もありました。
真に評価するべきは芸術としての映画であり、映画作家によって作られた映画である。本当に面白い映画は、作家の個性が感じられるものだけなのです。デュラスの映画みたいに「私は芸術家だ」といってもったいぶらなくとも、偉大な溝口のようにして、あらゆることを完璧以上の水準で行いながらも、その職人芸を感じさせない作品があります。そういった映画においては、作品を形作るあらゆる要素が語りかけてきます。観客は――多くは映画の専門家ではないので――、そのような細部について説明することはできないかもしれません。しかし、それを感じることはできます。その作品に対する印象が情熱を生み出すのです。映画に対する情熱は、同時に作品を理解しようとする明晰さによって支えられることになります。
私の考えでは、映画批評とは、そうした揺れや動きを表すことができなければいけません。気持ちに揺さぶられるまま情熱的な恋文を書いても、あまり面白いものにはなりません。それが面白いものになるとしたら、読み物として面白いからです。映画の魅力を引き出しているのでもない。
反対に、知的で論理的な文章を書いても、――知識としては有用かもしれませんが――映画の魅力は少しも表現することはできません。不必要な知識を得ることによって、凝り固まった考えを持ってしまう恐れもあります。そうした説明を行う人々は、本当にたくさんいます……。良くない傾向です……。真に面白い映画批評とは、映画の魅力を伝えるものです。画面を通じて見て感じ取っていながらも、理解できていないことを伝えようとする行いです。
HK お話をうかがっていると、形而上学的なところがあるのではないでしょうか? ドゥーシェさんが映画批評として伝えようとしているものは、演出による単なる効果などではなくて、より神秘的な問題に関わっているからです。しかしながら、一方で、色々と細かな歴史などの注釈もしている気がします。
JD 私も、最低限の知識の説明はします。今日の観客たちは、映画に関して本当に知識がなくなっているからです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
