2025/12/19号 8面

哲学

哲学 檜垣 立哉  二一世紀にはいり、すでに四分の一が経過した。現今の「哲学」といわれるもののトピックもさまざまに移り変わっていく。人文学の領域の最たるものである哲学にもアングロサクソン化の波は押し寄せ、良し悪しは別としても若手は英語で論文を書かなければ就職もおぼつかない。しかしながら、そのような時代であるからこそ、これまで「日本語」で書かれた「哲学的思考」の「とらえなおし」が多様に進んでもいる。日本で、日本語で哲学をなすことが何であるのか、ずっと日本の哲学にまとわりつくこの問いも、ある種の折り返し地点にあるのかもしれない。  そうした意味で、今年を代表する哲学書というよりも、「現在の日本の哲学」を考えさせる二冊をまずはとりあげたい。一冊はブレット・デービスの『日本哲学 世界哲学への貢献』(中島隆博監訳、筑摩選書)であり、もう一冊は山口尚の『現代日本哲学史』(青土社)である。  前者は、著者が『オクスフォード・日本哲学の手引き』を共同編集したことをひとつの発端とし、日本でも企画された『世界哲学史』(ちくま新書)の文脈もからませ、日本哲学とは何かを考えさせる。仏教史や明治以前の思想史に目配せしつつ、「日本の哲学」が何かを問いなおすというスタイルはオーソドックスで、京都学派系の記述の多さもまた従来からあるものである。しかし論のなかで、ENOJP(ヨーロッパ日本哲学ネットワーク)で活躍するジョン・マラルドをとりあげるなど、西洋側からみた「現代日本哲学」の「世界性」を探るという点で、時代の刷新を感じさせる。ほぼ日本語でなされてきた戦後の哲学が、世界的にどう位置づけられるのか、海外からの視線がおおきく変容していることがわかる。後者の著者山口は、すでに講談社現代新書で『日本哲学の最前線』としてJ哲学なる言葉をもちい、國分功一郎など「流行」の思想家を論じているが、今回の書物は、より体系的に大森荘蔵や廣松渉からはじめ、鷲田清一を通るケアの哲学のライン、ニューアカデミズムと柄谷行人、あるいは京都学派的な思考が将来の哲学へつながる方向を描く。だが、その記述の中心は永井均、入不二基義、小泉義之など、「日本固有種」としかいいようのない「日本語の思考」の焦点化にある。いずれの書物でも、末席に私自身の名前もみうけられ大変恐縮であるが、この二冊はアプローチを異にしながらも、戦前の京都学派の流れを一通り押さえつつ、今日の日本語の哲学の可能性をアクチュアルにとらえている。今後、日本の哲学思想がアングロサクソンの波にのまれるだけなのか、あるいは世界のなかで固有の地位と貢献が可能なのかを考える試金石を提供しているといえる。  また上記の山口の書籍でもとりあげられている入不二基義の『現実性の極北 「現に」は遍在する』(青土社)は、既刊の『現実性の問題』(筑摩書房)や『問いを問う』(ちくま新書)などをひきうけつつ、現実性にかんする考察を様相論、創発論、独我論などの領域での現在の諸思考と連関させ、入不二がAny-nessの哲学と名指すものに向かうものである。そこではとりわけ永井や、青山拓央などをとりあげ「日本的文脈」での思考の交錯を徹底して推進している。また江川隆男の『哲学は何ではないのか』(ちくま新書)は、ドゥルーズを巡り鋭い議論を提起してきた著者が、「哲学」と呼ばれるものを非哲学の側から問いなおすものである。江川は上記の日本哲学の系譜にはでてこないものの、フランス系のなかで、ドゥルーズに軸を置きながらも固有の思考を繰り広げてきた。この書物も、入不二と同じく、「日本」でしかなしえない思考の、ある種の到達点といえるだろう。  今後日本の、それなりに「豊か」であったこれらの人文知がどうなっていくのかはわからない。ただ今年は、日本哲学そのものを他者(西洋あるいはアジア)のまなざしや自己反省からみかえすことを必須とする局面にあることが明確になった一年であるとおもう。(ひがき・たつや=専修大学教授・大阪大学名誉教授・哲学)