中 勘助 考
堀部 功夫著
中村 三春
本書は同じ著者により、同じく翰林書房より一九九三年に刊行された『「銀の匙」考』の続編という位置付けになる。前著から三二年、その長きの間に弛まず、作家・中勘助および『銀の匙』などその作品について思考と調査を怠らず、五〇〇ページの研究に結実させた著者の膂力と根気、そして中と『銀の匙』に注ぎ続けた愛情の深さには感銘を禁じえない。
本書は大きな区分として、「Ⅰ 『銀の匙』注」「Ⅱ 家族」「Ⅲ 恋」「Ⅳ 戦争」の四部に分かたれた論考二三編と、「付 教科書に採られた中勘助作品」の資料集、さらに随所に挿入された五編の「コラム」と冠されたやはり論考から成っている。四部構成とはいえ、その構想に沿って書かれたものではあるまい。本書は多数の入口があっても、内部はすべて繫がっており、その内部は中勘助あるいは『銀の匙』という、小宇宙と言うべき渾然一体の情報空間を構築している。読者はどの入口から入っても、『銀の匙』を中心とする文学・作家情報の網の目にとらえらえ、そのネットワークが至るところで相互にリンクする様を見るだろう。
試みに、分かりやすいところで「『銀の匙』主人公の見た悪夢」の章を読もう。随筆「延年舞と大学生」に、父が飲んでいた沢の鶴に「酒屋からきた年玉の暦かなにか」の絵に関する記述がある。著者は、この「年玉の暦」と沢の鶴の絵を求め、古書店・博物館・図書館などを探索して、その絵を探し当て、さらにその絵解きを企てる。また、『銀の匙』で幼い「私」がうなされた夢から、随筆「衛戍病院」に記された悪夢が参照され、それらの起源として『日本山海名産図会』の「伊丹酒造」の図が措定される。一つのテクストから他の複数のテクストが喚起され、その連鎖には果てしがない。どの論考も同様に、無限の連鎖過程によって思考と探索の道筋が手に取るように分かるように書かれている。
また、「オノマトペ〈たをたを〉」と題する章がある。「『銀の匙』では表現研究が重要である。にもかかわらず、あまり取り組まれていない」とする動機から、中勘助の擬音語・擬態語の用法を追跡する。特に同作中の、白い鳥の「翼がたをたをと羽ばたいて」という表現に着目し、岩波文庫版における「を」「お」の校訂に留意し、『新訂大言海』や『源氏物語大辞典』に至る各種辞典類における用例の探究、白い鳥の種別(ユリカモメか、虚構の鳥か、など)、さらに歌語としての伝統の検証にまで及ぶ。著者はこれを中勘助の新語とするも、賀茂真淵の歌における「鷺の翼もたわにふくあらし哉」をその源泉として仮説を立てる。「たをたを」が源氏や鷗外にも実例のある言葉とは寡聞にして知らなかった。それにしても、たった四文字の擬態語にこれほどの精力を傾注した論者がこれまであっただろうか。
章題のタイトルに挙がっていない箇所(「御一新頃の〈父〉」の章の「追記」)にも、重要な提言が認められる。それはほかならぬ『銀の匙』表題の意味である。「銀の匙をくわえて生まれる」(Born with a silver spoon in one's mouth)、つまり高貴・富裕な出自という英語の言い回しが連想され、また中勘助の父祖が実際に富裕であったことから、この小説もそのような目で見る評者があったことについて、著者は明確に批評する。作中で匙とは薬匙であり、この題名は「最も簡単な話題の直接表示である」と見なす。これは題名の理論にも通じ、特に『銀の匙』を読者が手に取るか否かという契機にも繫がり、また作者と作品とを全く同一視するような見方に対しても一石を投じる条りと言えるだろう。
本書全体としては、主題としての収斂点は設けられず、あるとしたらそれは『銀の匙』等のテクストそのものにほかならない。ただし、比較的注力されているのは、「Ⅲ 恋」のセクションで展開される、中勘助の恋愛関係である。「青春期の恋」「朱夏期の恋」「白秋期の恋」などがそれぞれ「仮説」として論じられるが、中でも著者が注力するのは、「中勘助小児愛者的傾向説の検討」である。これは一編の論考として立てられるほか、随所で言及される問題である。富岡多惠子『中勘助の恋』以来、広く流布したこの説に対して、著者は例によって資料を博捜し、膨大な引証によって一つ一つ反論を企て、これを「火の無いところに立つ煙であった」と結論している。上記の各時期における「恋」についても、この見方を根底にして論が展開されるのである。
本書はこのように、『銀の匙』と中勘助の作品に現れ、また関係する言葉・事物・書籍・人物について、関連性の糸をたぐって縦横無尽の追尋を繰り返したのである。それら個々の要素と追究先の要素とが複数的に結合する様は、あたかも訓詁注釈による星座形成の過程を見るようだ。性急に自己主張を行う論述に対して、まずは評釈の原点に立ち返ることを、本書は暗に促すようにも感じられる。本書はどこから読んでもよいだろう。また、時間をかけてゆっくりと味読すべきものだろう。(なかむら・みはる=北海道大学名誉教授・日本近代文学・比較文学)
★ほりべ・いさお=二〇一四年まで諸大学の非常勤講師。著書に『「銀の匙」考』『近代文学と伝統文化』『宇田川文海に師事した頃の管野須賀子』、共編著に『漱石作品論集成』別巻、『四国近代文学事典』など。一九四三年生。
書籍
| 書籍名 | 中 勘助 考 |
| ISBN13 | 9784877374884 |
| ISBN10 | 4877374884 |
