2025/09/26号 3面

現実性の極北

現実性の極北 入不二 基義著 青山 拓央  新しい音楽を作り出すために、新しい楽器をも作り出した――、そんな趣のある一冊である。探究の内容だけでなく探究のための道具の多くも、著者のオリジナルであるというわけだ。「先行分母性」、「無内包」、「現実在(Actu-Re-ality)」……といった、本書に現れる独自の概念的楽器たちは、本書を楽しむ際にだけではなく、読者が自分自身の哲学の問いを掘り下げていく際にも、良い音色を出してくれるだろう。この書評の末部でも、「先行分母性」という楽器を借りて私も少しだけ演奏をしてみたい。  『現実性の極北』という書名は、本書のテーマをずばりと言い表している。本書は、現実性についてという以上に、現実性の極北について論じた本であり、より正確に言えば、現実性というものがその極限的な形態にまで変容していく運動のダイナミズムを描き出した本である。以下、限られた紙幅のなかで各章を表面的に撫でていくのではなく、本書全体を貫く洞察の一つをきちんと取り上げるかたちで、この書評を続けたい。そのほうが本書の魅力をうまく伝えられるからだ。  序章において入不二は、「先行分母性」という概念を提起している。気孔が開いたり閉じたりして呼吸をする様子を例にとろう。「開」と「閉」は対比項であるが、この対比が成り立つのは、それに先行する原初的な「開」があるからだ。つまり、気孔があらかじめ裂開しているからこそ「開⇄閉」の対比が成り立つわけだが、入不二はこれを、「開」という分母が「開⇄閉」という分子に先行することとして表現する。  ここで興味深いのは、分母の「開」と分子の「開」がいずれも「開」であることであり、それゆえ、対比項を持たない「開」と対比項を持つ「開」のあいだの新たな対比が発生することだ。この対比は、さらなる先行分母性を持った「開」を要求し、その要求は無限に繰り返されるが、その反復の極北にのみ、対比項を真に持ち得ない「開」が垣間見える。本書の終盤において入不二は、最上段の分子から極北の分母への運動、つまり、対比項を現に持った「開」から対比項を真に持ち得ない「開」への運動に「現実性の力」を見出す。  入不二は、「開と閉」だけでなく「出来事と行為」や「受動と能動」にもこの図式を適用していく。評者が特に惹かれたのは、それがホッブズ流の「自由」と非決定論的な「可能性」との対比に適用されていく箇所だ(第8章)。ホッブズ流の「自由」は「両立論的自由」とも呼ばれ、決定論と両立するものであると大多数の論者に考えられてきた。しかし、その「自由」は、意志したことを妨げられずに実行することの自由であり、それゆえ、その「妨げのなさ」を真に理解するためには、それが妨げられ得るための非決定論的な「可能性」が先行分母的に働いているのでなければならない。  評者はこの意見に賛同するとともに、先行分母性を用いたホッブズ解釈を、評者なりに別の方向へと拡張してみたい。ホッブズといえば社会契約論の提唱者としても有名だが、社会契約の際に各自が放棄するとされる「自然権」とは何だろう? 契約以前の自然状態において所有されていたとされる、何をしてもよいという権利? しかし、何も禁じられていない状態で「何をしてもよい」と言うのは無意味ではないか。「禁止」と対になっていない「権利」は、「権利」と呼ぶに値しないのではないか。  評者の見解を述べるなら、自然権もまた先行分母性のもとで、「権利⇄禁止」の反復の極北にのみ垣間見られるものである。だから、自然状態において自然権が在ったとホッブズのように考えるのは間違っているが、自然権などというものは在り得ないとただ述べるだけの人々も間違っている。入不二による「自由」への考察が、評者による「自然権」への考察とホッブズという一点で交わっているのはおそらく偶然ではないのだが、このことについては別の機会に改めて論じることにしよう。(あおやま・たくお=京都大学教授・哲学)  ★いりふじ・もとよし=青山学院大学教授・哲学。著書に『時間は実在するか』『ウィトゲンシュタイン』『時間と絶対と相対と』『哲学の誤読』『相対主義の極北』『足の裏に影はあるか?ないか?』『あるようにあり、なるようになる』『現実性の問題』『問いを問う』、共著に『〈私〉の哲学を哲学する』『運命論を哲学する』『アントニオ猪木とは何だったのか』など。一九五八年生。

書籍

書籍名 現実性の極北
ISBN13 9784791777082
ISBN10 4791777085