無明のフィロソフィア
小林 康夫著
白石 純太郎
大学一年の頃、哲学概論という授業を受けたことがある。ショーペンハウエル・ニーチェ・ハイデガーにかぶれていた私は、どんな話がされるのか楽しみにして、四月の心地よい風が入ってくる教室で、第一声を待っていた。白い髭を生やした、小柄な教授が入ってきた。ゆっくり、黒板を後ろにした椅子に腰をかけた。第一声はこのようなものだった。「この銀河系は永遠です。そして、その中に、太陽系という小さな世界があります。その中に、地球という、小さな星があります。そこには多くの大陸があります。そして、その中に、日本という島があります。その日本という列島の中の、東京という場所。そして、この大学の、この教室で皆さんに会えたことを喜ばしいことと思います」。教室の学生たちは、啞然とした様子だった。しかし、私は密かに感動していた。哲学=フィロソフィー、つまり知を愛するということは、世界を宇宙単位で認識することなのだというテーゼを提示させられたと感じたからだった。
本書は、そのような規模で哲学を語る。哲学によって世界を愛すること。そして、その愛は、どのようにして可能なのか。著者は言う。「わたしは、「真理」という言葉が、自分にとって、そう、あくまでもわたし自身にとってなのだが、なにを意味するのか、知りたい。わたしのこの生、平凡でとるに足らず、幸福でも不幸でもないこの生にとって、「真理」なるものが、なにか決定的な意味を持ち得るのか、そうでないのか、そのことをはっきりさせたい」と。夏という季節から、思索は始まる。そして、秋、晩秋へと思索は深まる。
この書を読み、私はすぐに後期ハイデガーを連想した。黒い森にあるトートナウベルクの山小屋で、季節の移り変わりと共に、思索を深めた「存在の牧人」ハイデガー。彼は、体系を作らなかった。ただ、朝は水を汲み、昼に思索をし、夜は薪をくべて静かに過ごした。この本は、必ずしも体系的な哲学書ではない。あたかも詩のようである。哲学詩。そのようなあり方は、まさにハイデガーが、ヘルダーリンに見出したような、存在の開けではなかったか。読者は、著者の思考をなぞるようにして、数々の引用からなされるアラベスクに酔いしれることができる。ゲーム・コロナ・幽体離脱……。哲学的エッセイというのは、まさにこのような本を言うのであろう。
「詩のもっとも本質的な使命は、名づけえぬものを名づけ、呼びかけえぬものを呼び、呼びかけることにある。詩は、言葉を通して、言葉のもっとも根源的な力をふたたび、何度も何度も呼びさまします。日常の普通名詞にそのもっとも固有な存在の力を与え返すのである。詩とは呼びかけの発明にほかならない」。美しいテーゼである。この美しさは、全編を通じて、様々な哲学的思考にパラフレーズされる。歎異抄、大江健三郎、中井久夫、プルースト、グレゴリー・ベイトソン……。
そして立ち上がるのは、哲学を通じた「祈り」である。世界の文法を超えた「存在」の分有を信じると著者は言う。あらゆるものに等しく分配された「存在」。そして信とは、世界の光とけっして別のものではない光への根づきを信じることだと著者は言う。光への根付きとは、卑近な言葉を使えば、世界を信頼するということではないだろうか。それは、ハイデガー的に言えば、存在からの呼び声を聞くことに他ならない。その時、思索する者は心を開けひろげて、存在そのものを感じ取る。そして世界に向かって祈るように首を垂れる。信じることと、祈ること。哲学を通じて祈るということは、だから、世界に対して祈るということになりはしないだろうか。
本書は、哲学的エッセイという形を取りながら、祈っている。であるから、私の大学一年の時の体験が、再び蘇るような感覚を私に与えてくれ、かつ多くの読者にもそれは感じられることであろう。(しらいし・じゅんたろう=ライター・文芸評論家)
★こばやし・やすお=東京大学名誉教授・哲学者。著書に『不可能なものへの権利』『起源と根源』『表象の光学』『君自身の哲学へ』『存在の冒険 ボードレールの詩学』『存在とは何か 〈私〉という神秘』、共編著に『知の技法』など。一九五〇年生。
書籍
| 書籍名 | 無明のフィロソフィア |
| ISBN13 | 9784801009516 |
| ISBN10 | 4801009514 |
