2026/03/06号 3面

論潮・3月(高原太一)

論潮 3月 高原太一  次の論潮では選挙について触れるの?と聞かれた。来月号では多くの論考で選挙結果とこれからの政治についての分析が見られるだろう。それはまたのお楽しみということで、先日、政治、もっといえば戦後の民主主義の基盤のようなものに触れる機会をもった。まずはその経験について書いてみたい。これは、人間だけではない生き死にするものの政治と倫理についての論考を揃えた、二つの特集「ポストヒューマン文学研究」(『思想』)と「医療の未来」(『現代思想』)とも関わっている。  東京駅から山形新幹線に乗り、赤湯駅でフラワー長井線に乗り換え、雪が残る鮎貝駅で私は降りた。昨年夏に社会評論社から出された『出稼ぎの時代から』の出版記念の集いに参加するためである。私が生まれ育った川崎市郊外の宮前区が現在のようなマンション地帯になったのは、一九七〇年代からである。この地域は東急が開発したまちとして知られている。その言い方は、しかし、ある存在を忘却した上にしか成り立たない。そのことを、同書と本に先だって制作発表された同名の映画は明かす。  問題は開発主体ではなく、その土台といえるインフラ整備やマンションの基礎工事を担ったのは誰なのかである。その一人が、同書の編著者・本木勝利さんであり、会に集った(いまは八〇を越えた)かつての出稼ぎ青年だった。あるいは男たちが出稼ぎに出ているため、女と子どもだけで生活を回していた地域の女性たちの存在を忘れてはならない。その周りには、雪が積もり、牛が生き、稲が土のなかで春を待っていた。ムラの世界は人間だけで成り立つのではない。  集会では、それぞれが言いたいことを自由に述べていった。出稼ぎ時代の思い出や過疎が進む現状へと話が及ぶのは予想していたが、話はそこに留まらなかった。現政権を含むいわゆる大文字の政治についての憂慮や批判、平和や軍事化に対する想いが発言者の口から次々と飛び出した。私の前に座った男性からは、六〇年代に出稼ぎで来た川崎の企業で働いたさいに労働運動と出合ったことも語られた。  同書には、一九七三年、農林省の前で白鷹町青年団が配布したビラが収載されている。「出稼ぎ農民の訴え」と記されたビラの書き出しでは、「わたしたちは、一年中土と共にある農民でありたいと考えます」との理想が謳われ、それとは対照的な現状について、「しかしながら、今、わたしたちは、地下鉄の工場現場でツルハシとスコップを振り下ろしています。高速道路の舗装工事、慣れない手つきで自動車部品、電気部品の流れ作業のなかで、今、賃労働に精一杯働いています」と訴えられた(七二頁)。そして、結論部分では、次のような政治批判が展開された。「考えてみれば皆さんは、コメを作ることにおいて、あるいは果物を作ることにおいては素人です。わたしたちは、こんな簡単なことを忘れてあなた方の言う通りにして来たことが間違っていたのかもしれません。農民が何千年もの間自然との営みの中で築き上げて来た農業を、あなた方の机上での農業につぶされてはたまりません」(七三頁)。  机上の空論があるならば、机上の政治もあるだろう。あるいは、議場の政治も……。この日、私は地に足をつけ、働き、生き抜いてきた人びとの地力とそこから育まれ鍛えられた批判的政治意識に触れた。戦後の民主主義を支えた基盤は、まだまだ生きているのではないか。  さて、思想という名がついた二つの論壇誌の魅力的な特集のなかでも、ここでは高山義浩さんの「高齢者の語りを支える地域医療へ」(現代思想)を取り上げたい。地域医療に長年携わってきた医師の高山が提起するのは、高齢者や患者として最後は扱われる人びとの生に、医療従事者と家族はどう向き合うのかである。その人がどういう生を送ってきたのか、なにを大切にしてきたのかを十分に把握できないまま、医療従事者は患者として接する。だが、相手のことが十分に分からないという点では、身内といわれる家族にとっても程度の差しかないのではないか。たとえ親子であっても、決して口にされることがない話題があるのを高山の論考は教える。  九〇代の女性(仮称シズエさん)は、感染症のため足首以下の切断しか道がないということで、一人息子とも相談を重ね、手術する同意を得ていた。しかし、在宅ケアの介護職員から「彼女は足を切ることに納得していませんよ」と伝えられ、高山は再度シズエと「向き合うことにした」(一六二頁)。その場で、高山はシズエからある出来事を知らされる。シズエの右腕は欠損していたが、それは沖縄戦の最中、ヤンバルの森を逃げる途中でハブに嚙まれ気絶していたところを米軍軍医に救出され、「有無を言わさず」軍医が腕を切断したからであった。だから、シズエは「もう誰にも私の体を切らせはしない。それで死んだとしても私の運命だよ」(同上)と語っていた。  しかし、これで話は終わらない。ハブに嚙まれた現場に、当時七歳だった息子も居合わせていたからである。息子いわく、母の意識が途切れる直前に「ここからは独りで逃げなさい」と告げられ、その言葉に従って息子は逃げた。だが、息子もまもなく米軍に捕えられ片腕を失った母と再会する。そのとき彼は「もう二度と、母親を見捨てはしない」と誓った(同上)。それゆえに、高山に「今度こそ、自分は母を最後まで支えていきますから」と命の助かる切断を懇願した(同上)。  高山はこのような二つの物語を「「楕円」の構造」と表現している。一つの正解へと統合することはもう一つの物語を収奪する暴力になりかねない。だからこそ、二人は対話する必要がある。高山は「いまがその時ではないでしょうか?」と息子に伝え、「二人は長い間、病室で話し合っていた」(一六三頁)。  出版記念の集いの翌日、本木さんに連れられて白鷹町内にある特別養護老人ホームを訪れた。そこで私は、かつての出稼ぎ青年(いずれも九〇代)と介護職として彼らのケアにあたるミャンマー出身の若者男女から話を聞いた。後者の一人は、国内情勢の不安から「安全な日本」へ来たと言う。その場には、園関係者も同席したが、いずれもがそのとき初めて聞く話だったようである。六〇年代の出稼ぎの話も、現在進行形の外国での労働の話も、聞く人がいなければ語られない。  それでは、みずから語らないとされる人間以外の諸存在の物語は、どのようにして、どこで語られはじめるのか。シズエの右腕を嚙んだハブの物語もあるはずだ。これから押されて、押されて、押されて、押されて、押されまくるという「成長のスイッチ」の物語も、スイッチを作る人びとの物語もあるはずだ。高山は「どのような意思決定であっても、それを支えることができる。これが日本の地域医療の強みであり、不断に目指すべきところだと思っている」(一六三頁)と述べる。同じことは政治についてもいえるだろう。とりわけ白鷹町のような地域での粘り腰の取り組みから新たな物語は生まれるのではないか。(たかはら・たいち=成城大学研究員・戦後民衆運動史)