ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 425
映画の根本にあるモンタージュ
JD トーキー映画へと移行した後のルノワールは、無声の時代以上に自由に映画を作っています。無声映画では、ある程度の型破りは許されても、一定の規則に従う必要があります。そうしなければ、単なる映像の寄せ集めになってしまい、見る人の眼を惹きつけることができなくなる。それは、グリフィスの映画であっても、エイゼンシュテインの映画であっても同様です。彼らの映画も、一定のルールに基づいて作られています。
ルノワールは、映像の細かい規則にこだわる人ではありません。専門的な映画作りを学ぶこともなかった。自分自身で映画を作り出していったのです。彼が最も大きな興味を抱いていたのは、役者や自然との関わり合いでした。撮影された映像から、最も生き生きとしたものを選び取り、映画全体が生き生きとするものとなるように、カットを繫いでいったのです。ルノワールの映画は、彼の感性に基づいて作られています。
HK 「イマジナリーライン」の問題ですが、ルノワールの映画に関して、特にそこを意識して観ることがあまりありませんでした。もう少しお話しいただけますか。
JD それはいいことです(笑)。彼の映画が、観るものに、映画の作りを意識させないというのは、とてもいい傾向だからです。本当に優れた映画は、例え複雑なことを行なっていたとしても、それを感じさせるべきではない。裏を返せば、演出が隅々まで完璧になされており、結果として、細部にまで意識が及ばなくなっているということでもある。どれほど完璧に見える映画でも、ところどころで失敗はあります。それに関しては、映画作家たち自身が熟知している。自分の作品に完全に満足している人はいません。映画作りは、撮影前、撮影現場、撮影後のあらゆる段階で問題が生じます。映画作家はそれらをまとめあげ、なんとか一本の映画を作っているのです。
HK 「イマジナリーライン」に関して意識するべきではないのかもしれませんが、つい先日『ハウス・ジャック・ビルト』を観た後、ドゥーシェさんがイマジナリーラインについて観客の前で熱心に説明していた覚えがあります。シネクラブにおいては、映画の技術的な問題については、普段あまり話をしないので、記憶に残りました。
JD ラース・フォン・トリアーのイマジナリーラインの問題は、技術的な効果に関わっています。単なる失敗ではない。映画の物語を語る上で、とても良い断絶を生んでいました。対話が行われている光景の全体像を見せると同時に、それまでの物語叙述の流れを一度仕切り直すことにもなっています。しかし、それ以上ではない。今日では映画の作りに無知な観客が多いので、場合によっては説明を迫られ、説明しているだけのことです。
似たような編集は、近年の映画に頻出しています。時にはそうした編集が場違いに感じられることもあり、場合によっては効果的にもなる。それだけのことです。見るべきは、そのような細部ではなく、あくまでも映画の全体です。映画全体を感じることのほうが大事なのです。
イマジナリーラインの問題に関してですが……。それは映画の編集全体にも関わる問題でもありますが……。編集というのは、言うなれば、映画の根本に関わるものです。編集は、映画制作の最終段階であり、――ゴダールが考えるように――映画フィルムの基礎でもある。つまり、映像が写真と区別されるのは、連続で繫ぎ合わされた写真の錯覚による動きからくるものです。映画の最小単位としてのイメージも、言うなれば「繫ぎ合わせ」で成り立っている。哲学的な話になってしまいますが、映画には、根本からモンタージュが関わっているのです。しかし、映像を見る私たちは、そのことを少しも意識しません。リュミエール兄弟の撮影した、ちょっとした映像を見る際に、一枚一枚の写真を意識する人はいません。人間の網膜は、一秒間に映し出される二四枚の写真を知覚することはできないからです。つまり映画というメディアは、人間の知覚、脳のシステムに強く結びついているのです。似たような写真や映像が目の前にあると、脳はそれを自然なものとして受けいれ、意識させることはなくなる。それは、映像だけではなく、モンタージュに関しても同じです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
