2025/05/30号 2面

理性の周縁

理性の周縁 鈴木 球子編 津崎 良典  近代合理主義の礎を築いたとされるデカルトの思想を学び始めて三十年近く経つが、いまだに腑に落ちないことがある。『方法序説』を読んでも『省察』を読んでも「理性」について定義らしいものが見当たらないのだ。  いや、そんなことはない。『方法序説』の冒頭には、「この世でもっとも公平に分け与えられているもの」は「良識」であり、「ほんらい良識とか理性と呼ばれているもの」は「正しく判断し、真と偽を区別する能力」であると述べられているではないか。しかし、これは理性をそれ自体において説明するものではなく、あくまで良識との相似性からその機能を理解しようとするものである。とても定義とは呼べない。  しかも、『方法序説』における「raison(理性)」という仏語の用例を調べてみると、意外なことに定冠詞laが付されている箇所は少ない。仏語の定冠詞には、英語と同じく特定の対象を示す機能があるが、英語とは異なり対象を総称的に示す機能もある。「一般」や「全体」というニュアンスが込められる。つまり、デカルトはどうも理性を抽象的かつ普遍的な観点から説明しようとはしていないのである。  その代わり、『省察』の仏訳における用例も含めると、「人間の」「われわれの」「私の」「何らかの」という言葉とともに使われていることがわかる。つまり、「この上なく完全で無限な存在」である神に備わった理性とは異なり、人間のそれは「正しく判断し、真と偽を区別する能力」であることには変わりないが、神の理性から独立・自立した有限なものとして捉えられているのだ。そしてその限りにおいて、理性は人間の生の営みにおいてはおのずと、各人に生得的に備わっているあれこれの能力——記憶、想像力、感覚など——と相互補完的な関係を結ぶことになる。  二〇二二年に信州大学で日本とフランスから六名の研究者を集めて開かれたシンポジウム「アンシャン・レジームから近代へ、そしてその先へ——文学と哲学」の成果である本書は、安易に理性を非理性に対置することなく、有限の理性では識別しえないものに人間はどのように立ち向かったのかという問いを、おもに十八世紀から十九世紀にかけてフランスで活躍した思想家(ダランベール、ディドロ、ドルバック、ルソーなど)や小説家(サド侯爵、ネルヴァル、バルザック、ユゴーなど)の言説を取り上げながら考察する。そして、理性の周縁に、あるいはその圏外にある「何かわからぬもの」や「ほとんどないもの」に「繊細な」眼差しを向け、さらには丁寧に掬い上げようと試みる。デカルトにおいて理性の境界と周縁はどのように考えられていたのかということに関心を持ち続けてきた者にとって、本書の読解は刺戟の連続だった。  デカルトは明証性を真理の基準とし、疑わしいものをすべて学知から排除した。そのとき感覚とともにやり玉にあげられたのは、想像力でありイメージであった。イメージとは、心像や形象の謂であると考えられがちだが、身体的なものや宇宙的なものをも含む。だとすれば、イメージの追放はそれらの排除にまで及ぶ。合理主義の徹底が反動として神秘主義やロマン主義などを誘発するのはそのためだ。  この作用と反作用のメカニズムを理解するのに、本書所収のヴァンサン論文と吉田論文はとりわけ有益であった。前者は、十八世紀フランスに誕生した「擬人法」という文彩がもつ詩性を分析し、「良識と理性」の名においてそれが退けられた理由を明らかにするからだし、後者は、十九世紀フランスの作家や詩人における「voyant」という仏語の用例を分析することで、これがたんに予言者や透視者を意味するだけでなく、芸術家、小説家、詩人と同一視される過程を辿るからだ。とりわけ詩人のランボーは「見者の手紙Lettre du voyant」と呼ばれる私信(一八七一年)のなかで、詩人はあらゆる感覚の方法的攪乱により未知なるものに到達すべきであるとした。それは言うまでもなく、理性の周縁あるいは圏外にあって、理性だけでは摑みきれない何か、人間のそれ以外の能力を動員して初めて知られる「豊穣な」何かなのである。(つざき・よしのり=筑波大学人文社会系教授・西洋近世哲学)  ★すずき・たまこ=信州大学准教授・フランス文学・哲学。著書に『サドのエクリチュールと哲学、そして身体』など。一九七九年生。

書籍

書籍名 理性の周縁
ISBN13 9784801008502
ISBN10 480100850X