2026/10/02号 2面

わが点鬼簿 3・高橋正也 (四方田犬彦)

わが点鬼簿 四方田犬彦 第3回 高橋正也(一九三〇―二〇一四)  大学院で一年上に小林康夫がいた。後にリオタールの指導の下に論文を執筆しブニュエル映画に出演したという映画史的偉業をなした人物なのだが、この人がはじめてパリに留学するときに、わたしに不思議な頼みごとをした。実は一人、預かっておいてほしい人がいるのだが、引き受けてもらえないだろうかという。わたしは何も聞かず、もちろんですと答えた。  70年代の終わり頃の話である。当時、西武PARCOがドミニク・サンダを大きくあしらったポスターで話題を呼んでいて、わたしはどうしてもそれを自分の部屋にほしかった。でも手立てがない。それには小林康夫の妹とお見合いをすればいいと、誰かが知恵を授けてくれた。彼女はPARCOに勤めているはずだから、ポスターを一枚融通するなどお茶の子サイサイだろうと。というわけで、わたしは小林康夫の頼みなら何であっても引き受けるという心の準備を、あらかじめしていた。ではその頼みごととは何だったのか。  ドイツ哲学の大好きな老人が家の近くに住んでいる。下宿屋を経営しているのだが、入居者の条件はただひとつ。大学で哲学を専攻していることだ。自分はあるとき銭湯で、浴槽のなかでハイデガーとかサルトルとかの名を口にしている人がいるので、面白い人だなとなにげなく話しかけた。それがつきあいの始まりだったのだが、やがて大変な人物だとわかった。格好の話し相手を見つけたと思ったのだろう。長電話どころじゃない。学校から帰ってくるとすでに部屋で待ち構えていて、さっそく哲学談義だ。どこに行っても哲学、哲学。パリに留学が決まったときには、ようやくこの哲学おじさんから解放されると思い、ホッとした。ヨモタ君には悪いけど、自分の代わりにオジサンの話し相手になってくれないだろうか。  わたしはポスターを手に入れることができた。小林康夫の妹さんとは、結局、お見合いをすることはなかった。というのも、わたしもまた外人教師の職を見つけ、大急ぎでソウルへ行ってしまったからである。ただ高橋正也さんという、この哲学オジサンとの縁だけが残った。  高橋さんは戦前、下町の大きな玩具屋さんの家に生まれたらしい。沖縄で米軍の捕虜となり、収容所でハリウッド映画を観て以来、大の映画好きとなった。ハイデガーなど読んだこともないわたしを見て、哲学談義の相手としてはもの足りないと思ったのだろう。もっぱら映画の話ばかりをした。わたしは心の中で彼のことを「ゲルマンおじさん」と呼んでいた。  ゲルマンおじさんは、サルトルが来日したとき、汝はハイデガーに及ばずやと質問したところ、彼が黙ってしまったという話をした。サルトルを論争でへこましてやったぞ、というのが自慢だった。それからわたしを、秋吉久美子の映画を撮った直後の松本俊夫や、『映画芸術』編集長の小川徹のところへ連れて行ってくれた。二人とはいかにも旧友という感じで話をしている。しかし何といっても驚いたのは、雑誌『エピステーメー』の編集部にわたしを引っ張って行き、編集長の中野幹隆さんに紹介してくれたことだろう。ああ、中野君かい、これから連れてってあげるよという、いかにも軽い調子だった。  だがさらに信じられないことが起きた。中野さんはわたしと十分ほど話した後で、それでお原稿は何枚くらいできているのですかと、いきなりいい出したことだ。「エピステーメー叢書」というシリーズを刊行中なのだが、フーコーやバルトといった外国語の翻訳はともかく、日本の著者を探しているところだという。こうしてわたしの最初の本が、あっという間に刊行されてしまった。1980年のことである。(よもた・いぬひこ=映画誌・比較文学研究家)