2026/04/10号 5面

「ビジネスマンになった批評家」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)432(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 432 ビジネスマンになった批評家  JD 私は、若い映画の専門家たちが話すようなことはとてもよく知っています。しかし、それには興味がありません。ゴダールの人生についてなど、昔から聞けずにいるちょっとしたことなどはありますが、それはゴダール自身も話したがらない個人的なことであり、また私の個人的な興味によるものです。そうしたことは、他にもたくさんあります。特に人前で話すようなことでもありません。しかし映画の学者たちは、まるで墓を暴くかのようにして、そのような情報を集めることに躍起になっています。  HK 最近の映画の研究者を見ていると、ベラ・バラージュやエイゼンシュテインのような人はいませんね。ゴダールは、「映画の研究」をしていると自称していますが、百年くらい前の映画の研究者は、現在とは趣が異なります。  JD 映画の研究とは、本来的には、彼らが行なっているようなものであるべきです。つまり、「映画とは何か」について考えるものである。ゴダールは、今日においても唯一探求をし続けている映画作家です。彼は、そのことについて非常に意識的です。他の人々は映画を利用しているだけなのに、ゴダールは映画に貢献し続けています。彼の映画が世間に理解されないのは当然です。なぜなら、彼はまだ誰も見たことのない、行ったことのないことを探し続けているからです。彼が何をしているのかは、簡単には理解できません。そして人々は、自分の知らないことに対して嫌悪感を覚えます。なぜなら、どのようにして見ればいいかがわからず、いかにして評価すればいいのかわからないからです。非常にスノッブな態度であり、かつ老人の態度です。新しいことに対して興味がなく、また新しいことの可能性を奪うことでもある。そうした態度は、現在の映画界に蔓延っています。  現在でも若い人たちが志を持って映画に興味を持ちますが、あっという間に老人のようになってしまう。老人かつビジネスマンのように成熟してしまい、しまいには何も身動きが取れなくなってしまう。新たな表現は規則通りではないことを認めず、より儲かるものを求めて、似たり寄ったりの退屈な映画を作るだけに終始している。本当に残念です。  HK そうした傾向は、映画業界だけでなく、大学や社会の至る所にあると思います。世の中が安全第一になっています。  JD 世の中はそうなのかもしれません。ただ問題は、映画に関わる人たちなのです。カンヌ映画祭の出品作を見ると、いつも同じ顔ぶれです。たまに新しい顔ぶれがいても、非常に成熟した映画を作っている。物語叙述法、映像、編集など、技術的には正しいのかもしれませんが……。本当に面白いと思わされる作品は、少なくなってきています。  昨年度のカンヌにおいて最も若々しい作品は、私と同世代の老人による作品でした(笑)。  HK 『イメージの本』は、若々しいのかもしれませんが、哲学的だとかアラブ擁護の説教くさい映画であるとも非難されていました。  JD まさしくそれこそが、私の言っている問題なのです。人々は新たなものに対してよく理解できずに、作品の細部に対して、文句を言うしかない。そうした非難が映画に向けられたものではないことは明白です。ゴダールはいつも同様の非難を浴びせられてきました。ある時には、キリスト教に対する嘲笑だと考えられ、パイを投げつけられたりもしました(笑)。  HK そんな風に世間から反感を買うというのは、逆にいい映画なのかもしれませんね。現在の映画の大部分は、何事もなかったかのように、一ヶ月後には映画館の掲示板から、ポスターが消えて、半年後には話題になることすらありません。  JD 残念ながらその通りです。批評家たちでさえ、ビジネスマンのようになっているのです。常に明日へ、明日へと先へ考えていく。新商品への興味しかないのです。  HK 批評の態度も、最初期の『カイエ』とは、だいぶ変わってきていると思います。五〇年代の映画批評は、『カイエ』に限らずとも、何かを発見することへの姿勢がありました。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)