2025/04/04号

志筑忠雄

志筑忠雄 大島 明秀著 平岡 隆二  本書は、ニュートン物理学からオランダ語文法論にいたるまで、幅広い分野で蘭学の新たな扉を開いた長崎の蘭学者・志筑忠雄(一七六〇―一八〇六)の生涯を描いた最新の伝記である。著者は、この二〇年にわたり忠雄の足跡を追い、丹念に研究を積み重ねてきた歴史家だ。その豊かな成果が一冊の書物にまとめられ、私たちの手元に届いたことを、まずは喜びたい。  忠雄が生きた一八世紀後半は、ロシアの南下や蘭学の勃興など、政治と学術の両面で西洋の存在感が高まった時代であった。その潮流のただ中にあった長崎で、貿易商家・中野家の五男として生まれた忠雄は、やがて阿蘭陀通詞・志筑家に養子入りし、稽古通詞となる。一七八六年には通詞の職を辞し、中野家へ戻るが、在職中から行っていた蘭書の翻訳をやめることはなかった。その訳業は、天文学、力学、数学、弾道学から、世界地理、国際情勢、薬草学にまで及び、晩年にはオランダ語学書の執筆にも取り組んだ。しかし、著訳書以外に生涯を裏付ける一次史料がきわめて少ないことから、謎多き蘭学者としても知られる。  本書の特筆すべき点は、そうした忠雄の人生と業績を、豊富な史料を駆使しながら、これまでにないレベルの解像度で描き出した点にある。その追跡は、実家・中野家の所在地や、通詞としての在任時期、広範囲にわたる訳業の内容と影響、さらには近代日本における忠雄の人物像の形成過程にまで及んでいる。  なかでも、本書の白眉とも言えるのが第五章だ。ここでは、著者が「蘭文和訳法」と名付けた忠雄の翻訳手法が鮮やかに解き明かされる。それまでの蘭学者は、オランダ語に訓点(レ点や一・二点)を施し、漢文のように読解する「欧文訓読」を採用していた。しかし忠雄は、日本語とは大きく異なるオランダ語の文法カテゴリーを十分に理解したうえで、その構造を当時の日本語で表現するための学問的方法をはじめて編み出した。この革命的な手法の誕生を、本書は見事に証明している。  さらに重要なのは、その方法が荻生徂徠の古文辞学や本居宣長の国学の深い影響を受けていたことを、史料に基づいて実証したことだ。一見すると、伝統からの脱却に見えるこの知的転回が、実は江戸時代における漢語や和語の研究と分かちがたく結びついていたという結論には、驚きを越えて感銘すら覚える。忠雄の蘭学は、ただ西洋の知を受け入れるものではなく、日本の学問の地層の上に、もうひとつの思索の層を築く試みだったのだ。  蘭学が同時代の他の学知とは性格の異なる特殊な分野だという認識は、歴史研究者の間においてさえ、今なお根強く残っている。しかし、どのような学問にせよ、歴史のなかで培われてきた言語や人間、自然に関する理解を土台に探求が進められるのであって、それと隔絶した知的真空のなかで成立するわけではない。さらに著者は、忠雄の学問の根底に「格物致知」を通じて「治国平天下」を実現するという朱子学的な学問観があったとも推定する。蘭学の本質を考える上で極めて重要な指摘である。  本書が提示するもう一つの視点も見逃せない。それは、通詞を辞した後の忠雄が、自らの学問によって再び仕官することを強く望んでいたという新たな説である。彼が訳した蘭書の選択や、訳書に付された名前の変遷を追うことで、著者は、忠雄が通詞ではなく幕府や藩の学者として登用される道を模索していたと推定する。そこで描かれるのは、人との交流を拒絶して蘭書に耽った「天才」ではなく、己の学問で名を成そうと苦闘し続けた一人の「人間」としての忠雄の姿である。しかし、彼に再仕官の声がかかることは、ついになかった。晩年、彼が「蘭文和訳法」にまつわる著作群をまとめあげたのも、その頃には仕官の夢をあきらめ、自らの学問を門人に継承するためだったとされる。これらの著作は、孤独な学者の静かな叫びだったのかもしれない。  本書は、この魅力的な蘭学者にまつわる今後の探求の出発点として、これから長く読み継がれていくにちがいない。巻末には、系図や年譜、分野別著作一覧、また充実した参考文献も付されており至便である。多くの識者にぜひ一読をお勧めしたい。(ひらおか・りゅうじ=京都大学准教授・科学史・東アジア知識交流史)  ★おおしま・あきひで=熊本県立大学教授・蘭学研究。著書に『「鎖国」という言説』『細川侯五代逸話集』『蘭学の九州』など。一九七五年生。

書籍

書籍名 志筑忠雄