ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 455
良質の映画/芸術としての映画
HK ヌーヴェルヴァーグの世代には、二つのタイプの映画があったはずです。一方には、ジャック・ドゥミを含めたいわゆるヌーヴェルヴァーグの映画があった。それとは別に、アンリ・ヴェルヌイユ、ミシェル・ドヴィルなどの商業的な成功を収めていた映画があった。ドゥーシェさんが普段から話したがるのは、前者のカテゴリーに当てはまるものだけだと思います。
JD はい。芸術としての映画についてです。
HK 後者にあたるものは、ルイ・ド・フュネスの映画であったり、リノ・ヴァンチュラ、ジャン・ギャバン、ブリジット・バルドーといった役者などが出演するような、大衆的な作品が多い。
JD それらは、多くの場合、商品としての映画を意味しています。ゴーモンなどの大手の映画会社がお金を出して、お金を儲けるために作っているような作品です。つまり「良質の映画」です。
HK 一般的に、映画批評の分野で、後年まで語られるのは、圧倒的に前者のものが多かったはずです。
JD はい。なぜなら「良質の映画」の多くには、語るようなものが非常に少ないからです。そうした映画を作る人たちは、映画が真に好きなわけではない。彼らが興味を持っているのは、〈書かれたもの〉です。入念に準備された脚本、スタッフを雇うための小切手、映画雑誌の誌面に現れる観客動員数などなど。
近年の多くの映画批評家や映画史家が、そうした映画に興味を持つこともよく理解できます。なぜなら、映画批評にしても映画史にしても、映画について私たちが〈語ること〉とは、そうした〈書かれたもの〉に基づいているからです。
例えば、ドゥミの映画に興味を持つ映画批評家もしくは映画史家がいるとしましょう。彼の映画に向き合うためには、幾つもの方法が考えられます。ドゥミの作品を実際に見て分析することもできる。映画館での上映とDVDでの鑑賞などを通して受ける印象は異なるので異質の体験になりますが、そうしたことは抜きにして、映像に向き合うことができると考えましょう。
それに対して、ドゥミの映画の周辺に関して話をすることもできます。つまり、どれだけの観客が彼の映画を見ただとか、どれくらいの興行収入が出たのだとかを考えることもできます。その二つの向き合い方は、同じドゥミの映画を対象にしていても、全く異なったものです。前者は主観性に基づくものであり、危険を伴いますが、何かしら面白い発見があるかもしれない。なぜなら映像は、開かれたものであり、常に変化し続けるものだからです。それは、映画の本性に接近しようとする試みであり、「映画とは何か」という問題について考えようとすることでもあるからです。
しかし、その映画がどれだけの観客に見られたのかという問題は、映画とは別の問題です……。それは社会学的な問題であり……、要するに、私たちの問題ではないということです。つまり、映画批評の問題ではなく、映画作家の問題でもありません。当然ながら、映画というものは観客なしに成り立たないものなので、数字などを気にもしなければいけないのですが、それは映画の魅力とは関係ありません。その点に関して、大きな勘違いをしている人がたくさんいます。
HK その問題は、作家の映画と良質の映画のあいだにある差を考える上で重要ですね。さらには、そのふたつの間に存在する曖昧な映画作家にも関わりそうです。作家の映画として、無条件で『カイエ』の映画批評に擁護されてきた映画作家としては、ゴダールやストローブなどが当てはまると思います。当然ながら時代ごとの編集方針の問題もあったはずですが、それらを抜きにしては『カイエ』の映画批評は成り立たたない。ドゥーシェさんは、ストローブ、ブレッソン、デュラス、リヴェットなどの映画を好きではないですが、重要な映画作家という点においては同意していただけるはずです。
JD はい。私は彼らの映画が好みではありません。しかし、彼らは重要な映画作家ではあります。彼らの映画が好きで、私よりもよく話をする仲間がいました。だから私は彼らの映画については、批評をするような真剣さでは見ていません。ブレッソンに関しては、私の好きな映画作家の一人です。シネクラブや講演会で取り上げたことも、それなりにあります。私が嫌だと考えているのは、彼の書いた本に対してです。非常に不自由な本であるからです。
HK 一方で、手放しで擁護されはしないが、完全に切り捨てられないようなグレーゾーンに属する映画作家もたくさんいます。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
