文芸 2月
松田樹
『アンデル』『GOAT』など、低価格帯の文芸誌が創刊され、売行き好調であるそうだ。従来の文芸誌とは異なり、安価な価格帯で気軽に手に取れるという方針。それが様々な書き手に触れたいというニーズに応え、新たな読者層の掘り起こしに繫がっているという。一方、本欄で主に取り上げることになる五大文芸誌も近年は特集ベースで企画を組み、多様な声を誌面に反映させようと工夫を凝らす。
『ユリイカ』『現代思想』を創刊した三浦雅士は、松浦寿輝との対談「知が立ち上がる場所」(『群像』)にて、日本の雑誌文化を担ってきた編集的な知性が今こそ求められていると説く。「鳥瞰し接写する眼。繫ぐことの前提。交通するエディターシップこそが今一番必要とされている」。SNSの全盛期、紙の媒体に求められているのは、自動化されたアルゴリズムの外部、知的な好奇心を満たす編集の妙である。雑誌は「雑」でなければならない。近年の文芸誌は、その資源を積極的に活用し、再起動を図ろうとしているように見える。
同対談を収めるのは、まさに特集「交叉する思考」。ただ、「交叉」や「繫ぐこと」といった主題を上手く展開していたのは、むしろ特集外の短篇(それもまた「雑」誌の美点だ)。今村夏子「山登り」(『群像』)は、何気なく目にした登山の番組から山への興味を高めてゆく物語。「突然すべてがつながった」。天啓のように訪れた山登りへの欲望はこう説かれるが、「私」はいわゆる信用できない語り手。その興奮を読者は分け合うことができない。著者の別作品にも見られる通り、一人称を採用しつつも語り手の偏執をどこか突き放し、「私」を冷淡に客観視するような技巧が異様に上手い。
あちらとこちらを繫ぐ知性。それが他者の視点を欠いたまま妄想のように膨張してゆくのが陰謀論だ。今村とともにそこにアプローチするのが、滝口悠生「庭野広の駄洒落と陰謀」(『群像』)。庭野広は独居老人。定年を迎えた直後に妻を失い、地縁の繫がりが薄い袋小路のような住宅地に住む。淡々と日々を送っていたある日、ネットの「陰謀論にはまりかけた」と気づく。庭野老人の妄想癖は、駄洒落への偏執によって示されていた。「駄洒落というのはいちどそういう思考回路が開通してしまうとなかなかその通行を止めることはできないようだ」。大切なのは、ユーモアの感覚を失わないことだ。彼は孤独ながらも時折は大学生と冗談混じりの会話を交わし、近所に野菜を配るなど小さな配慮を忘れない。だから、彼は孤独な妄想のみに閉じず、生活の手触りを失うことがない。
ヒタヒタと身に迫る不穏な空気と日常の手触り。そこに橋を架けることはできるだろうか。陰謀論のような自閉的な妄想とも異なる仕方で。現在、様々な作家がそこに腐心している。
例えば、李琴峰「紫陽花が散る街」(『文學界』)。主人公「うろこ」は美しいものしか存在しないドーム型の「〈まほろば〉の街」に住む。「〈イザナギ〉」という汎用型超知能が管理するその世界では女性は生殖を強制され、産まない女性は「国に何ひとつ貢献できない、醜く、おぞましく、有害な存在」とされる。外では戦争が続くが、「〈イザナギ〉」の統制でドームの中は安泰。保守的な政党が声高に主張を始め、内向きに閉じてゆく日本の政治状況を寓話的に描く。似た感触を持つのは、害虫獣駆除業に従事する男を描いた木村友祐「殺しの時代における都市型狩猟の観察」(『すばる』)。本作が労働小説にとどまらないことは、冒頭に害虫獣駆除業社「アービレイ」の名が「嗚呼、美麗」に由来すること、同社が社員を「純日本人のみ」と歌っていることなどから示唆される。ただ、李作品にも言えることだが、風刺的な性格が強い分、後半の展開がやや読めてしまう。木村の場合は、前半の労働場面のリアリティがその瑕疵を補っている。
両作は二〇一〇年代以降――村田沙耶香以降と言ってもいい――盛んに見られたディストピア小説の系譜を受け継ぐ。一方、新たな文脈を開拓しようとしているのが、大前粟生「小さくて大切な場所を守るための日記」(『小説TRIPPER』)。ある年の九月から一ヶ月間の記録を収める日記体の小説。新人賞に向けた小説を構想する日々、マンション工事の騒音、友人の公演など身の回りの瑣事が綴られるが、時折挟まれる三浦哲郎の作品や『ガザ日記』からの引用が「私」の日常を戦地の騒乱へと繫いでゆく。「「それ」と「これ」という異なるものに橋をかけることに意義があるなんて思ってしまうから小説を書いているのかもしれない」。その架橋の手がかりを得られた時、「私」の小説の構想はまとまるのかもしれない。近年の日記ブームに棹さしながらも、どうしてもそこにつきまとう自閉性を回避している。
最後に、印象に残った作品として、松田いりの「ハッピー山」(『文藝』)を。町田康を意識したような一人称のユーモラスな文体で、何度もふき出しながら読んだ。あちらとこちら、自己と他者、日常と非日常の繫がりを大前や松田はその文体のみで切り開いている。ここから新しいものが登場することに期待したい。(まつだ・いつき=文学研究・批評・愛知淑徳大学創作表現専攻講師)
