碩学の旅Ⅷ イタリアの光と闇Ⅰ
マリオ・プラーツ著
石黒 盛久
本書『イタリアの光と闇Ⅰ』を単なるイタリア観光案内、つまり一人の碩学〝による〟旅案内として手に取られた向きは、少なからぬ困惑の念に捕われることだろう。そこに描き出されるのは、著者の〝外側に〟存在するイタリアの名所旧跡の客観的描写でない。プラーツという稀代の碩学の心象の鏡に、彼の学識や趣味そして何よりもその人生というプリズムを介し映し出された、〝イタリア〟という幻想の記録だからだ。その意味で本書は正に、碩学〝の〟イタリア案内なのである。
とは言え幻想はその繁茂の土壌を必要とする。庭園曼荼羅として描き出された湖水地方(本書一章「ロンバルティアの庭園」)や永遠の午睡に夢見るヴェネツィア(三章「ヴェネツィアの祝祭」)にはじまり、自然と人文の調和を具現するトスカーナの田園風景(四章「ヴァーノン・リー」、五章「騎士の庭」)をへて、訪れる者を魅了してやまぬカラブリアの〈永遠の真昼〉(七章「コロンナ岬巡り」)、シチリアの赫々たる眺望が孕む生と死の永遠回帰(八章「シチリア、円形劇場、墓地」)に至るまで、南北に長いイタリア半島の多様な風光が本書において、著者の流麗な筆致のもと鮮やかに描き出されている。だが評者が、〈曼荼羅〉〈午睡〉〈調和〉〈永遠〉〈真昼〉〈赫々〉〈永遠回帰〉といった言葉でしかそれを表現できなかったように、イタリアの生の現実はプラーツの言葉の錬金術により、〈マリオ・プラーツ〉なる刻印を刻まれたものへと余す処無く変成されてしまう。
そのことは図らずも、本書に登場する彼の知の先達たちの姿に光を当ててくれる。ダヌンツィオ(二章「ダヌンツィオ博物館」)、ヴァーノン・リーあるいはリーの先達としてのペイターやラスキンそしてニーチェ、さらにその彼方にダンテの姿をさえ遠望してもよい。彼等の方法は決して、理性的な分析による客観知の獲得に基づくものではない。己の生の営みを拠り所に、或る時代の内に結晶する真善美の全体を、一挙に了覚する詩的直観こそが、彼らの知的営為の秘鑰であった。
ダヌンツィオについて言えばかかる詩的直観は、ガルダ湖畔の彼の旧居を訪れた際、そこに収められた収蔵品についてプラーツが抱いた、皮肉に満ちた感想を以て語られる。彼によればこの旧居のあらゆる展示品はそこに、「〈力と快楽〉を軸とする自己語り」というダヌンツィオ自身の個性が刻印されているが故に、「いくら回しても同一のものしか出てこない」万華鏡にしかならないのだ。そこに我々は、ダヌンツィオのそれに類似した自身の知的直観のありようへの、プラーツの自戒と羞恥を看取することもできよう。だが彼が私淑した女流文人ヴァーノン・リーの回想の段となると、「耳に聴こゆる音色は甘美なるかな、されど耳に聴こえぬ音色はさらに甘美なるかな」というこの閨秀による一句の引用と共に、かかる詩的直観に基づく文化理解はより積極的なものとして評価されている。
だが本書におけるプラーツの方法の秘密は、締めくくりの九章(「ジャン・バティスト・イザベイのイタリア旅行」)において最も直截に開示されていると言えよう。我々がイタリアの名の下に想起する気候風土の幻想がまさに、イザベイに代表される一八世紀末以来のこの地を描いたアルプスの彼方の版画家たちや、彼ら作品が挿入された同時代の文筆家たちの旅行文学を通じ誕生したものであることが、そこでは印象深く解き明かされている。〈グランド・ツアー〉という言葉ほど、彼らが作り出したこの仄かに英国趣味を燻らせた幻想を象徴するものはない。そしてかかる幻想の追体験こそが、イタリア人イギリス文学者としてのプラーツ自身の趣味形成の揺籃となったことを我々は、そこにはっきり読み取ることができる(彼はそのことを「近過去」への没入と語っている)。
イタリア観光の英国文学性は、かのギッシングの旅体験をプラーツが正に追体験するような構えでものされた七章(「コロンナ岬巡り」)において、具体的に実感できる。たった一本の古代の柱が、文学作品やそれに付着する情報の屈折を経て、見者をからめとる幻想世界を凝固させていく。こうした幻想性は、本書に取り上げられた〈観光地〉の多くが、今日もなお辿りつき難い人跡稀な地にあることにより、いっそう強められている。冒頭述べたように本書は決して万人向けの観光案内ではない。むしろプラーツとともに、そしてプラーツのようにイタリアを素材に、自己の幻想世界に陶酔する旅を体験したい人に推奨したい刺激的な一書である。(金山弘昌・新保淳乃訳、石井朗企画構成)(いしぐろ・もりひさ=金沢大学教授・政治思想・政治文化 ・ルネサンス)
★マリオ・プラーツ(一八九六―一九八二)=イタリアの文学批評家・エッセイスト・美術品蒐集家。一九二三年から三四年までイギリスに滞在しリヴァプール大学とマンチェスター大学でイタリア語文学の教授。三四年にイタリアに戻り、六六年までローマ大学の英語英文学教授をつとめた。著書に『官能の庭』など。
書籍
| 書籍名 | イタリアの光と闇Ⅰ |
| ISBN13 | 9784756626974 |
| ISBN10 | 4756626971 |
