社会
橋爪 大三郎著
湯山 光俊
本書は『言語ゲームと社会理論』から40年以上にわたって、いくつもの著作物を世に送り出してきた橋爪大三郎氏による集大成であると言ってもよいかもしれない。しかし語り口は軽妙で、かつて自著で検討されたテーマが切れ目なく登場して〈社会〉という概念を、最もシンプルなルールから再構築しようと試みている。とりわけユニークなのはヘーゲルの〈歴史哲学〉のように、いくつかの文明を極限まで図式化して見取図を抽出しようとしている点である。
橋爪氏は「本書『社会』は、身体の複数性をはじめて明示的に踏まえた、社会学の書物である」(193頁)と明言する。これは社会体が単に人間の集まりだと言っているだけでなく、身体と身体の〈あいだ〉に発生し作用するものを中心に思考が展開していく宣言でもある。橋爪氏によれば〈あいだ〉は三つの作用に分類されている。「(1)性・身体と身体とのあいだで直接にはたらく。(2)言語・身体と身体とのあいだで形式を介してはたらく。(3)権力・身体と身体とのあいだで人びとの意思を整合させるようにはたらく」(404頁)この指針に基づいて研究をするのが「言語派社会学」であると続ける。
これには前置きがあり、社会において身体は内側と外側に分けられる。内的な身体は情動や感覚などにより私的なルールへと内向するが、外的な身体は他の身体と対置して常に三様の〈あいだ〉を作用し合うというわけである。ここで面白いのは、内側と外側という位相をあわせ持つ身体を貫通していくのが「言語」であるという指摘である。いわばこの二相は二つの言語の流れを作る。内側へは意味をずらしつつ螺旋のように渦巻いて私的様体を生成させる。一方、外側へは並列に身体を貫いて〈あいだ〉の言語ゲームを構成する。そして本書の白眉である〈自由論〉はこの言語の二つの流れを前提にして、その発生の機序を逆転させていく。そもそも無関係な内側を持った身体が外側で出会い並列に並びうることによって、身体の内側に自由は仮設されるのである。
「性/言語/権力の三つの作用は、絡み合って、さまざまな社会形象を形成する」(247頁)。そしてそれら社会は「言語ゲームの渦巻き」(248頁)として生成され現れてくる。それはいわば無数の身体が並べ合う実験であり、共生する模索の道である。社会学の役割はこれらを見える形で記述し、より多くのその先へ進む選択肢を与えることだと著者はいう。
こうして本書の前半は原初的な社会の元型と言えるようなものを描いた。指針となる理論を整理して、後半部では実際の歴史を具体例にしながら前半で提示された社会の指針がいかに組み替えられ変容し、機能していくかが語られる。歴史の地図によって社会という言語ゲームの実験の実例を示していくのである。
農耕と交換関係、領土と戦争と帝国、蓄積と蕩尽、文字と身体の内側の解放など、著者がこれまでの著作で論じられたテーマが敷衍された上でヘーゲルの〈歴史哲学〉のような試みが最後に登場する。
まず、宗教から文明の図式化を提示する。中国の儒教から抽出される「人が人を支配する」自明性、インドのヒンドゥー教から「価値ある真理」の専有とカースト/階級制、イスラム教からは世俗の王に支配されることのないムハンマドを通じたアッラーの唯一性、キリスト教においては旧約/新約によって二層を持つことになる唯一神の重層構造が、そのまま主権国家と国際社会の二層性を持つことに繫がる。司祭を媒介としたカトリックから、神へと直接開かれていくプロテスタントへの〈信仰の変遷〉に自由社会への萌芽を見る。そして最後に、もっとも仮想的異世界で身体にバランスを備えた内側と外側を持つ存在が現れた時に、社会において「自由」が仮設される要件が述べられ、自国への省察が行われるのである。
これら歴史的考察から分かったことは、身体が並列な関係であり、法があまねく機能している時に初めて身体の内側で〈自由〉が有効化されるということである。
〈社会〉の思考は〈あいだ〉の思考であり、群生せずには生きられない社会的動物における、言語ゲームが織りなす法と自由の渦巻きと言い換えてもよい。そうであるなら本書は一人一人に問いかけている。このゲームは有効か? このゲームは自由か? このゲームで生きられるのか? その言葉の貫通が、いかなる書物にも卓越して本書を社会的書物にするのである。(ゆやま・みつとし=文筆家)
★はしづめ・だいさぶろう=社会学者・大学院大学至善館特命教授・東京工業大学名誉教授。著書に『性愛論』『丸山眞男の憂鬱』『小林秀雄の悲哀』『皇国日本とアメリカ大権』『日本人のための地政学原論』『権力』など。一九四八年生。
書籍
| 書籍名 | 社会 |
| ISBN13 | 9784000617390 |
| ISBN10 | 4000617397 |
