2025/04/18号 5面

憧れの世界

 ジェイムズ・ジョイスはホメロスの『オデュッセイア』を翻案して『ユリシーズ』を上梓し、二〇世紀小説の扉を開いた。しかし、万人が認める古典を下敷きにすることだけが、現代小説の条件というわけではない。青木淳悟はデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」(二〇〇三年)の頃から、一見して古典性や作家性とは無縁な記号的かつ定型的なテクストの海を渉猟し、それらを収拾し、描き改め、織り直していくこと、そうした行為をさらなる俯瞰的な視座で組み替える形で小説を紡ぎ続けてきた。  〝顔〟を剝奪されたシミュラークルたらざるをえない主体が、なおかつ主張できるものがあるとしたら、どのような形で伝えられるのか。青木淳悟の小説はそれを掬い上げることで、小説そのものが通念を超えて変容していくのがスリリングなのである。ノストラダムスの大予言で知られる一九九九年七月(と八月)の新聞記事をブリコラージュした「日付の数だけ言葉が」(二〇〇七年)や、高校教員の一見何気ない記録文を小説へと再構成することで、ありがちな学園ドラマめいた起伏の不自然さを端的に示した〝ノーワンダー〟な学園小説「私のいない高校」(二〇一一年)など、何が「文学」で何がそうでないかを恣意的に決定づける俗世間の力学を転覆させる問題作の発表を続けてきた。そんな青木が今回、挑んだのは、スタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』(一九九五年)の翻案であった。しかも本書には、「憧れの世界」と「私、高校には行かない。」というまったく別個の作品が一冊にまとめられている。  何を隠そう、評者は中学二年のときにデートで『耳をすませば』を観に行ったことがあり、この作品は甘酸っぱい想い出を抜きには語れそうにない。けれども、青木淳悟は評者のように同時代的な思い入れから翻案に挑んだわけではない。本書の冒頭には、著者自身の解題という形で執筆の動機が記されているが、どこか核心を摑ませない謎めいた感覚がある。なるほど『耳をすませば』は、主人公の月島雫がヴァイオリン職人志望の天沢聖司と出逢い、自らの人生の目標として、愛好する児童文学ファンタジー小説を書き上げる、というストーリーである。モデルとなっている聖蹟桜ヶ丘のロケーションはみずみずしいし、ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」の歌詞の翻訳から始まる摑みも清新だ。  しかし、現実世界の一九九五年は阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が日本社会に恢復不能な傷を与え、ジュヴナイル小説のモードは作り込まれた異世界ファンタジーから、自意識の牢獄に淫する「セカイ系」へと変質していくことになる。まさしく『耳をすませば』の世界と対極なのだ。青木淳悟の翻案は、こうした状況をもテクストに取り込みながら、登場人物に性的な妄執を仮託させる二次創作的な想像力から、図書館の貸出記録を介して雫と聖司が知り合うという、奇跡的な偶然の連続でしかありえないシチュエーションの再検討までもが、幅広く扱われる。  単行本化にあたって翻案の苦労話も書き下ろされているのだが、小説技術としては参考になりつつも、鵜呑みにしては肝心の「なぜ」という批評性からは、かえって遠ざかるように思えてならない。例えば、青木淳悟が翻案に取り入れている『妖術師・秘術師・錬金術師の博物館』は実在する良書なのだが、ファンタジー小説に必要なエソテリスム的な背景を掘り下げる、という理由だけで登場するわけではない。著者名のグリヨ・ド・ジヴリと、スタジオジブリを引っ掛けてもいるのだ。そうした語り落としが、表層のレベルから本書には随所に仕掛けられている。そもそもタイトルからして、「私、高校には行かない。」は、「私のいない高校」の裏返しではないか。  考えてみれば翻案といっても、柊あおいの原作漫画があるわけだし、二〇二二年には実写映画化もされている。そのなかで、あえて小説として再話を行う利点はどこにあるのか。それこそ徳間アニメージュ文庫でのノベライズのような形で、『耳をすませば』を代補するものとはなっていないというのに……。実際に本書を通読すれば、作品世界を多元宇宙として現出させるインパクトが追究されているとわかる。余談だが、図書館の貸出目録を模した本書の栞には笑ってしまった。あなたの名前も書き入れてみよう!(おかわだ・あきら=文芸評論家・現代詩作家・総合学園ヒューマンアカデミーシナリオカレッジ特別非常勤講師)  ★あおき・じゅんご=作家。「四十日と四十夜のメルヘン」で新潮新人賞受賞。著書に『四十日と四十夜のメルヘン』(野間文芸新人賞)『私のいない高校』(三島由紀夫賞)など。一九七九年。

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