2025/02/28号 5面

「映画芸術のひとつの完成形」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)381

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 381 映画芸術のひとつの完成形  JD いずれにせよアメリカの物語は、英語圏の文学の強い影響下に置かれていました。その影響は、フランク・キャプラに至るまで何度も繰り返され、アメリカ流の〈ハッピーエンド〉が完成します。彼らの周辺で映画作りをしていた人も、後に映画作りに携わるようになった人も、そうしたアメリカ映画の基礎を無視することはできないのです。  そしてアメリカには、プラグマティズムの考え方があります。それは、私たちヨーロッパの考え方とは大きく異なります。ヨーロッパ、その中でもフランスは、とりわけ思想を出発点として、作品を作る傾向があります。隣のドイツでは、映画を含めた芸術は観念的です。要するに、考え・思想をもとに映画を作るという点においては、似通っているのです。そのことは、それぞれの国の芸術が発展した歴史的背景とも関わっています。ドイツであれば、彼らは――時にいやらしいほどまでに――ロマン主義に自惚れてしまう。その意味で私は、ヴェンダースやヘルツォークの映画が嫌に感じる時があります。イタリアであれば、コンメディア・デッラルテからネオレアリズモ文学、偉大な絵画や彫刻の歴史を引き受けながら、映画を作り続けてきました。フランス映画における影響も、非常に多岐にわたっています。しかし、物語的な面では、一九世紀の自然主義文学の影響が強かった。なぜならゾラやフローベールは、ユゴーなどの大作家と比較すると、視覚的な文学を実践していたからです。とりわけルノワールは、彼らから非常に強い影響を受けています。スペイン、デンマーク、スウェーデンなどの国々も、それぞれの国の文学や歴史など、自分たちの身の回りにある世界を出発点として映画を作っていました。いずれにせよ、ヨーロッパの映画は、考えが先行する形で作られてきたのです。  アメリカは、異なります。彼らの思考様式とは、まず何よりも行動です。つまり、〈アクション〉の結果として考えが出てくるのです。西部劇においては、そのことがより明確になります。『捜索者』の冒頭のジョン・ウェインを思い出してください。エプロン姿の女性がドアを開け、外へと出る。そのシーンは、映画の幕開けとして完璧なものです。なぜなら、映画の上映は、暗闇の中へ光が差し込むことによって始まるからです。彼女は、何かを探すようにして外へと出る。カメラも、その女性に付き添うようにして外へと出る。外には、フォード特有の〈風〉が吹いています。彼女は、そのまま遠くを探すようにして、扉の前に立ち尽くします。視線の遠く先から、馬に乗った男が向かってくる。家の扉の前には、続々と家族が登場し、遠くから向かってくる男を見つめます。馬に乗った男は、次第に家に向かってくる。しかし男を見つめる家族が動くことはない。なぜなら、誰が向かってくるのか、わからないからです。男は家の前につき、馬から降りる。その瞬間に、誰が帰ってきたのか家族は理解し、大喜びで、男を家の中へと向かい入れます。  そのシーンは、とても美しい。映画芸術のひとつの完成形です。何一つとして語られることはない。しかしながら、同時に全てが語られています。つまり〈アクション〉によって、全てが示されているのです!  HK その帰還というモチーフは、物語の最後でも繰り返されます。  JD そのふたつのシーンは本当に大事なものです。幕開けがこれほどないまでに美しいものであったのに対して、幕引きも限りなく美しい。放蕩男ジョン・ウェインの帰還が、全く同じようにして、なおかつ完全に異なるものとして立ち現れてくるからです。  映画の冒頭におけるジョン・ウェインは、たった一人です。素性の知れない男が、砂漠の中をたった一人で、画面の奥から手前へと向かってくる。家庭を築き定住している家族は、それが誰だかわからない。そして同時に、映画の観客も誰が向かってくるのかわからない。登場人物と観客は、同じリズムに従っており、男が誰であるかを認識するのは同時です。フォードのそうした演出は、本当に素晴らしい。  しかしながら、同じモチーフが最後に繰り返される際には、全く違うものになっている。つまり、観客は当然のことながら、ジョン・ウェインの冒険を二時間近く見ているので、その帰還者がジョン・ウェインと誘拐されたナタリー・ウッドであることは理解している。そして、冒頭の映像と対比されるように、家族もその帰還者が誰であるか、すぐに理解するのです。要するに、フォードの映画の中では、あるひとつの動きがあり、その結果として別のシーンが作られているからです。  〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)