百人一瞬
小林康夫
第84回 黒田アキ(一九四四― )
幅八センチ縦一〇・五センチの本。テクスト七頁リトグラフ五点九頁。それが格子模様のきれいな函に収まっている。
自著・編著・訳書を含めて、この人生、(数えたことはないが)何十冊と本をつくってきたわたしだが、なかでもっとも小さな、もっとも軽い……でもなにか、一個の美しい「空白」が保持されているという不思議な感覚が湧き上がる。
タイトルは、「Le Passage de l’ange」(天使のパッサージュ)。版元はパリのマーグ画廊、百二〇部限定で、刊行日が一九九九年一〇月一五日。リトグラフはわが友人の黒田アキの作品。テクストは、わたしがアキさんの絵のモチーフだったカリアチード(人像柱)に触発されて書いたもの、黒田アキ作品へのオマージュである。というのも、このテクストの元は、一九九七年にパリの郊外にあったラ・マニファクチュール・デ・ズイエ(カーネーション工場)で行われたアキさんの展覧会+パフォーマンスのために書かれたものだったからだ。
文部省の海外研修制度のおかげで、わたしは一九九五年度の一年間パリに滞在することができた。留学時代とは違って、その一年は、パリというわが愛する「迷宮」にわたしの存在が迷いながら溶け込んでいくような不思議な時間だった。
そう、少しおどけて言ってみるなら、その「迷宮」で、わたしは黒田アキという「ミノトール」に出会ったのだ。
ミノトールは、もちろんギリシア神話のクレタ島の地下迷宮に棲む怪物だが、アキさんにとっては、彼のアートの原点である一九三〇年代のシュールレアリスムの雑誌『ミノトール』であり、じつは、原点回帰と言うべきか、最近の制作では、アキさんはますます怪物「ミノトール」と化した自画像を描くようになっている。
だが、この怪物はそれほどこわくはなくて、むしろおもしろい。その九五年のパリの「迷宮」で、われわれは毎日のように朝、カルチエ・ラタンのカフェ・フロールで一緒に珈琲を飲みながら、宇宙の話、人類の話などをした。それは、まさにシュールレアリスム的会話だった。
アキさんは言う、「もっとも深い宇宙の奥底の温度は、絶対零度より少しだけ高いんだが、それはわれわれの宇宙が膨張しているという証拠なんだ」と。
わたしが応える、「われわれの魂もきっと同じさ。膨張しているんだよ。膨張というのは、宇宙の愚行みたいなもんだね」と。
いったい他の誰と、こんな超現実的な会話ができるだろう。アキさんとの対話を通じて、わたしはわたしのシュールレアリスムの「迷宮」に、(翼をもがれた「天使」となって)降りて行くことを学んだのかもしれない。
「天使のパッサージュ」だけではない。アキさんは、幅三二センチ縦四十六センチのご自身の雑誌「COSMISSIMO」の第七号(一九九五年)の冒頭にも、「ESCALIER(階段)」と題されたわたしの仏語の詩と(わたしが撮った)「階段の写真」を掲載してくれた(わたしの次はソニア・リキエルのテクストとデッサンが載っている!)。さらには、ほとんどわたしの精神の「銘」であるような四行の詩文をアレンジした大判の版画(「プラカール」)も制作してくれた。
アキさんとの出会いが、わたしに、「詩」という「糸」を手に、パリ? いや、「存在」という底知れぬ「迷宮」に降りていくように仕向けてくれたのだ。
「天使のパッサージュ」のテクストは拙著『思考の天球』所収(「青、その宇宙的愚行――A・Kのために」。また、本連載第29回も参照のこと。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)
