2026/09/04号 7面

追悼=山田五郎(泉麻人)

追悼=山田五郎 パンキッシュなジェントルマン 泉麻人  山田五郎の存在を知ったのは『タモリ倶楽部』に〝お尻評論家〟として顔を出すようになった頃(90年代の初めか?)からだが、しばらく接触はなかった。95年の春から、僕が〝御意見番〟的なポジションで出演していた『出没!アド街ック天国』を降りることになって(執筆仕事を優先したい、という僕のわがままが主因なのだが)、その役割を引き継いでもらったのが山田さんだった。彼をよく知るタモリ倶楽部のスタッフが制作サイドにいたという事情もある。  それが98年の春先の頃だったが、ほぼ同じ頃に『サンデー毎日』誌で「日本崖っぷち大賞」という座談連載が始まった。みうらじゅんの仕切りで、僕、山田、安齋肇という4人メンバーによって、サブカルの常識の崖線のようなこと(たとえば、ブルース・リーのネタはどの辺がインかアウトか?)を取り決めるという、まぁくだらねー雑談会なのではあったが、会場の竹橋の毎日新聞社ビルの廊下でトイレの行き帰りに山田さんとすれ違ったとき、「オレがやっちゃっていいの?」とアド街出演の件を確認されたことをよく覚えている。  そんなサンデー毎日の企画のライヴ版のような感じで、京都の旅館を会場にしたトークイベントがスタートしたのがこの夏のことではなかったか……。駅前の「銀閣」という旅館の物好きな館主が始めた、広告クリエーターや編集者を養成するセミナーの特別講座で、これはサン毎の連載が終わった後も20年近く、夏の恒例イベントとして続いた。山田さんの逝去が夏の盛りだったこともあって、とりわけこの京都イベントのときの光景が回想されてきた。  例年夕方4時くらいのスタートだったが、旅館の控え間に小1時間ほど前に集まって、京らしい水菓子(竹筒に入った水ようかんとか)をつつきつつ館主を交えて世間話を交すひとときが楽しかった。みうら、安齋、僕もラフなTシャツやアロハ姿だったが、山田さんは仕立ての良さそうなシアサッカーやコードレーン生地のジャケットをピシッと着こなしてくることが多い。「やっぱり京都はアツイですねん」などと関西イントネーションであいさつをして、手持ちの扇子を開いて軽く仰いでから、矢継ぎ早にハイライト(後年はショートホープ)を喫っていたけれど、ヘビーな喫煙行為がシャレた感じの身だしなみの照れ隠し、のようにも思われた。  通路の向こうの大広間で催されるトークショーには、毎年200人かそこらの客が集まっていた。4人による座談がメインではあったが、あるときから1人ずつ順に出ていって、15分くらい1人喋りをするという構成になった。はじめはクジ引きで順番を決めていたはずだが、いつしか山田さんがトップバッターとして定着した。  こういうオープニング・トークにおいて、まずは笑いがとれそうな面白エピソードを選ぶのがふつうだろうが、山田五郎はあえて重い話をする。  「山田さん、また怒ってるよ」  通路越しに偵察してきたみうらくんに聞いて、大広間の近くまで行ってみると、出版界の現状を憂うような話をしている。ボヤいているうちに本当に腹が立ってきて、声を荒げているような場面もあった。プログレッシブ・ロックを好んだ男でもあったが、ヘビースモーキングと同じく、器用なジェントルマンの自分を破壊してやりたい……というパンキッシュ願望を常に持っていたような気がする。そして、印象的な風貌とともに、粘りっ気のある巻き舌気味のダミ声が効いていた。  著作を読むと、美術や服飾の正統評論家としても充分通じる知識はあったろうに、場外にいたかったのだろう。役割としてサブカルチャーのウンチクも語ったが、本当はサブカルなんて大して興味はなかったのかもしれないな。(いずみ・あさと=作家・コラムニスト)  山田 五郎氏(やまだ・ごろう、本名武田正彦〔たけだ・まさひこ〕=評論家・編集者)七月十四日死去。六七歳。  一九五八年東京都生まれ。大学卒業後、講談社に入社し、『ホットドッグ・プレス』編集長などを務め、二〇〇四年に独立。以降は評論家として西洋美術、時計、都市文化などを精力的に論じた。著書に『知識ゼロからの西洋絵画入門』など。