科学時評 8月
粥川準二
今年三月、書評紙『図書新聞』が惜しまれつつも終刊となった。筆者は同紙で約五年間、連載「科学時評」を続けたが、このたび本紙で、同じ連載名のままこれを再開することになった。復活のオープニングとして今回注目したいのは、現在、日米で同時に進行している人文社会科学(人社系)、とりわけ社会学という学問に対する圧力、あるいは包囲網の現状である。
まず国内に目を向ければ、二〇二六年夏の高市政権下で閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針」、いわゆる「骨太の方針」に盛り込まれた不穏な一節が、学術界だけでなくSNS上でも大きな反響を呼んだ。そこには教育分野の改革案として、「成長分野の重視」と並び、「人社系のダウンサイジング」という言葉が明確に記されていたのである。文部科学省はこの一節を、教育密度の向上や理工系・デジタル人材の養成へ舵を切るための規模適正化であると説明し、二〇四〇年時点で理工・農・デジタル・保健系の定員を五割にするという数値目標を掲げている。しかしながら、その突然で、なおかつ強引な言葉遣いは、人社系つまり人文社会系学問の価値を経済効率という基準だけで価値づけしようとする危うさを見せている。
これを報じた『東京新聞』は「政府はこれまでも人社系を『冷遇』するかのように取り扱ってきた」と書く(松島京太ほか「骨太方針に明記『人文社会科学系ダウンサイジング』の真意は」、『東京新聞』、二〇二六年七月二四日付)。実際に時間を巻き戻せば、国立大学法人の組織改編をめぐって文科省が人社系学部の廃止や「社会的要請の高い分野への転換」を求めた二〇一五年の通知や、二〇二〇年に日本学術会議が推薦した人社系の会員候補六人の任命を、当時の菅義偉政権が拒否した問題など、前触れは以前から続いていた。『東京新聞』で、東京大学の隠岐さや香教授(科学史)は、今回の「ダウンサイジング」という表現について、社会を考察するという行為を一部の人たちだけのものにしようとする「まるで独裁国家のような表現」であり、気味の悪さを感じる、と所感を述べている。
同様の事態は、アメリカのフロリダ州において、より先鋭的な〝文化戦争〟ともいえる様相で進行している。同州の州立大学を管轄する委員会は、二〇二六年三月、長年コア・カリキュラム(必修科目)の一つであった「社会学概論」をその枠から外す決定を下した。これにより社会学は、卒業要件を満たすための必修科目ではなく、選択科目へと格下げされることになったのである(Richard Luscombe,“Florida axes sociology as required class at state universities in latest attack on‘woke’”,The Guardian, March 27, 2026)。この動きを先導したのは、保守派の旗振り役として知られるロン・デサンティス知事が送り込んだ教育当局者たちである。知事の政治的同盟者であるレイ・ロドリゲス学務局長は、「学問分野としての社会学は、今やアカデミズムの法衣をまとった社会的・政治的なアドボカシー(擁護・宣伝)活動に変質した」と述べ、リベラルな「目覚め(woke)」イデオロギーによる学生への洗脳を防ぐ、というロジックを展開した。しかも、この決定は、現場の教員たちへの相談も公聴会も経ず、議事日程にもないまま抜き打ちで行われた。
なぜ現在、体制は社会学をこれほどまでに嫌悪するのか。ノースカロライナ大学のマイケル・シュヴァルベ名誉教授(社会学)は、教育情報メディア『インサイドハイアーエド』誌への寄稿で、その本質的な理由を論じている。彼によれば、「実証的な厳密さを持って社会的世界を研究することは、支配の根拠となるファシスト版「現実」を突き崩す可能性を秘めている」。社会学の実証主義精神は、支配層に都合のよい「神話的な過去」や「不可避な結果」としての不平等といった虚偽を暴き出し、現状を相対化する視野を学生に与える。シュバルヴェは「人間が作り上げたものは、人間が変えることができるのである」と主張する(Michael Schwalbe, “Why Fascists Hate Sociology”,Inside Higher Ed,April 2,2026)。
この認識こそが、現状維持を望む勢力にとっての脅威となるのだ。社会学は、意図と結果の乖離を指摘する。たとえば、中産階級の親が「子どものために」と選んだ合理的行動が、結果として居住地域の分断を招く構造を、社会学は解明する。こうした分析は、個人の善意の背後に隠れた制度的矛盾を突きつけるため、現状の恩恵を受けている者たちにはきわめて不都合なのだ。社会学への攻撃は、単なる一科目の削減ではなく、既存のシステムを再考する知的な抵抗の契機を絶やそうとする行為なのである。
日本の「人社系ダウンサイジング」とフロリダ州の「社会学追放」が掘り崩そうとしているのは、複雑な世界を捉え、個人の歴史と社会の歴史との交差点で何が起きているのかを理解し、他者とともに異なる未来を構想するための「社会学的想像力」そのものにほかならない(C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』、筑摩書房、二〇一七年、原著一九五九年)。
AIが加速度的に浸透しつつある現代こそ、その帰結を批判的に問う人社系の視点は、むしろかつてないほど重要性を増しているはずである。
学問は通常、人文科学と社会科学、自然科学に分類される。しかし科学と聞くと、われわれは自然科学を想起しがちである。本連載「科学時評」の科学も、主に自然科学を指す。しかし自然科学を批評するためには、人文科学や社会科学の知見が必要不可欠である。そうした長期的かつ大局的な社会的要請が「科学時評」を再開させたのだ。(かゆかわ・じゅんじ=叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)
