2025/11/14号 2面

回想のイスラーム 1832―1845

レオン・ロッシュ著『回想のイスラーム 1832―1845』を読む(澤田直)
『回想のイスラーム 1832―1845』(矢田部厚彦訳、杉田英明編集・校訂)を読む レオン・ロッシュ著 澤田 直  「波瀾万丈の人生」という言葉は、この人のためにあるのではないか!『回想のイスラーム 1832―1845』を読んだ第一印象は、そのようなものになるだろう。十九世紀初頭、フランス東南部の都市グルノーブルに生を享けた冒険心溢れる青年が、植民地になって間もないアルジェリアに赴き、現地でアラビア語を習い、軍所属の通訳になるも、それにあきたらず、誰に頼まれたわけでもないのに、反仏勢力を率いるアブデルカーデルのもとに単身赴く。自分はキリスト教を棄て、敬虔なムスリムになった者、猊下のために自分のフランスに関する知識を用いてほしい、献身的にお仕えしますと偽り、その懐深く飛び込む。その行為をアルジェリアとフランスの融和的関係を夢想したためだと、本人は説明するが、周囲からは疑いの目が向けられ、アブデルカーデルが徹底抗戦の道を選ぶにいたって、二年後、ロッシュはその元を去る。  ひとたびフランス側に戻ると、今度はアルジェリア総督ビュジョー将軍(後に元帥)の通訳官として、アラビアの言語と文化の知識を駆使して、アルジェリア制圧に寄与することになる。だが、軍隊という枠組みに馴染めず、精神的に追い詰められたロッシュは、再びムスリムの姿に身をやつし、反アブデルカーデル・親仏派工作のための密使となって、チュニジアを通ってエジプト、メディナ、メッカまで旅したのち、最後はローマを経て、無事アルジェに帰還。その先々で騒動に巻き込まれる姿はヴォルテール描くカンディードを彷彿とさせる。  アラブとジョージアの混血の美少女ハディージャとのプラトニックな恋愛と秘密の逢瀬、忠実な従者イジドールとの二人三脚、敵はもちろん盗賊にもしばしば襲われる旅行など、ほとんどピカレスク小説の様相を呈す本書は、本文とその注だけで優に千ページを超える作品だが、退屈することなく読了できる。  レオン・ロッシュ、どこかで聞いたことがある名前、と思った方もいるはずだ。そう、幕末に日本に着任したフランスの全権公使である。あのロッシュにこのような前日譚があったのか、と膝を打つ人もあろう。英米の外交官とは異なり、敗軍の将、徳川慶喜に肩入れしたのは、かつてアルジェリアでやはり弱き側に心を寄せた姿と二重写しになるとも思うかもしれない。著者がアラブ人に対する敬意や情愛を各所で吐露しているからなおさらだ。  だが、このほとんど「小説のような人生」という第一印象は、杉田英明氏の周到な解題によって無残に打ち砕かれる。じつは話の半分はロッシュの創作、つまり文字通り小説なのだ。本人は自らが当時つけていた日記と友人たちと交わした書簡といった資料を用い、忠実に再構成したと公言しているが、じつはメッカ巡礼で描写される情景をはじめ、アラブ文化とイスラームに関する記述のほとんどが既存の書籍の引き写しであり、ほんとうにメッカに行ったことすら疑わしいという。のみならず、ロッシュはアラブ側からはフランスのスパイ、フランス側からアラブに寝返った裏切り者として、評判が悪いというから、なんともいかがわしい。だが、本人は二つの文化の架け橋になることを望み、行動していたと明言しており、それは噓ではなかろう。 本書が私たち日本の読者にとってきわめて重要な作品である理由はいくつかある。ひとつは、植民地問題である。一八三〇年、いわゆる「扇の一打」事件によって、フランスによるアルジェリア植民地化は本格的に始動したのだが、当初こそオスマントルコの軛から解放された現地の住民は歓迎したものの、フランスの野望が露わになるや、抵抗が起こった。一八三二年十一月に、各地の領袖たちは、当時弱冠二十四歳だったが名家の出身のアブデルカーデルを総督に戴き、聖戦を展開。勇智にすぐれたアブデルカーデルは、西部地区でフランス軍を悩ませ、一時はアルジェリアの三分の二ほども制圧し、軍事でも財政行政面でも近代化を図った。ロッシュは二年ほど彼の側近だったわけで、この伝説の英雄を内面から描いている部分は貴重だ。一方、ビュジョー将軍の下では、現地に関する知識や情報を惜しげもなく上官に捧げ、作戦の成功に寄与し、レジオン・ド・ヌール勲章を受けるほど評価されている。こちらもフランスの植民地政策の裏面を知る助けになる。  第二には、このオートフィクションを先取りしたような作品が、当時のフランスのオリエンタリズムを図らずも側面から浮かびあがらせている点である。ロッシュは明らかにマキシム・デュ・カンのエジプト旅行記などを参照して記述しているが、言葉の端々に当時の東方への全般的な夢想が透けて見え、興味深い。  第三は、最初に述べたような活劇冒険小説としての楽しみの側面。スタンダールやバルザックのような緻密な構成はなく、冗長な部分もあるとはいえ、良質の時代小説を読んでいる気分にひたることができる。  第四は、中東地域を専門とする杉田英明氏による詳細な注と解題。当時のアルジェリアはもとより、アラブ文化一般に関する行き届いた注は、まさに碩学の仕事であり、徹底的な校閲と相俟って、邦訳に原典以上の価値を与え、手元において参照する事典としても有益なものとなっている。  全二巻からなる本書(三巻は刊行されなかった)は、第一巻が「アルジェリアとアブデルカーデル」と題され、一八三二年から四一年七月まで、「エジプト、メッカ、ローマ」と題された第二巻が四一年末のチュニス出発から、四五年のパリとタンジェ出張まで、という構成である。さらに原著にある補巻、書簡だけでなく、参考資料、関連地図、人名・地名・集団名の索引まであり、いたれりつくせりだ。  それだけに、この翻訳に心血を注いだ訳者が刊行を前に鬼籍に入ってしまったことは惜しまれる。惚れ込んで、この難物に挑んだのは、外交官の矢田部厚彦、若き日の赴任地エジプト以来、オリエントに親しんだ元フランス大使である。大部であるだけでなく、膨大な固有名詞やアラビア語が点在し、さらには著者の表記が必ずしも正確ではないのだから、道のりが平坦でなかったことは想像に難くない。翻訳着手が二〇〇九年ごろ、訳稿が整ったのが五年後の二〇一四年。スピンアウトの形で、矢田部氏は同年に『敗北の外交官ロッシュ イスラーム世界と幕末江戸をめぐる夢』(白水社)を上梓。しかし本書が刊行されたのはそこから一一年後。その間、杉田氏の助力を得て七校もの作業を経たと聞く。本書の質は、訳者の強い思いと、外交官としてのキャリアに裏打ちされた該博な知識によるところが大きい。氏は綾部克人名でも執筆した、知る人ぞ知る文筆家でもある。古きよき時代の日本語をまじえた文体は、原書の雰囲気をみごとに伝えている。  泉下の矢田部氏を偲びつつ、批判的校訂版と呼ぶにふさわしい本書の刊行を言祝ぎたい。(矢田部厚彦訳、杉田英明編集・校訂)(さわだ・なお=立教大学名誉教授・フランス文学・哲学)  ★レオン・ロッシュ(一八〇九―一九〇〇)=フランスの外交官。四九年駐トリエステ一等領事、五二年駐トリポリ総領事、五五年駐チュニス総領事を歴任。六三年駐江戸総領事兼代理公使に任命されて翌年来日し、四年間の在任期間を経て、六八年全権公使に昇格、七〇年退官。八四―八五年に『回想のイスラーム』刊行。

書籍

書籍名 回想のイスラーム 1832―1845
ISBN13 9784588495236
ISBN10 4588495232