2026/04/17号 3面

吉原GUTAI論

吉原GUTAI論 大井 一男著 仲世古 佳伸  七〇年代の中頃から四年間、 僕は大学で芸術を学ぶために大阪に住んでいた。ある日の授業の中で、大阪の美術家集団である〈具体〉のことを知り、そのグタイというトクベツな響きが大阪という土地と相成り、鮮烈なインパクトを受けた。場所は忘れたが最初に見た具体の作品は、吉原治良のタブローだったと思う。白地に黒一色で円が描かれた絵を前に、僕はとまどった。簡素で、どこか居直ったように在る作品の雰囲気はまだ現代美術の知識と体験も足りなかった僕には、未知なるものとの出会いであった。  その後、具体のメンバーの中の、木枠に張った紙に突進する〈紙破り〉のパフォーマンスを行う村上三郎や、天井に吊るしたロープにつかまり、足で絵を描く白髪一雄や、電球と管球で造った衣装を身に纏った〈電気服〉の作者の田中敦子などを知り、けったいなことをする人たちだなあと思いながらも、そのひたむきな行為の連続に、斬新と憧憬と、芸術への畏れを感じとっていたように思う。  本書の著者である大井一男は、銀座にあるホワイトストーンギャラリーに長年勤務する画商だ。この本のユニークなところは、大井一男の画商としての眼と、批評者としての両眼が、作者の記述を往来し、内実を露呈した〈アートドキュメント〉として、具体の創造のオモロサを、無心に自在に書き綴っていることだ。具体美術協会〈具体〉のリーダーである吉原治良の経歴に始まり、日本の禅思想と具体との関係、著者の提示する〈行為Φアート〉という概念を軸に、具体の〈行為としてのアート〉と、その相関する〈痕跡作品〉としての問題意識、そして吉原治良のプロデューサーとしての海外戦略の痕跡と、大井一男の具体への個人的な未来への余白を残すことで、この本は締め括られる。  僕は二年前、銀座のホワイトストーンギャラリーで、吉原治良の作品を観ることがあった。メンバーのひとりである白髪一雄のフット・ペインティングも展示されていた。久々に対面する吉原の絵を前に、ここ数年で国際的に評価されてきた具体は〈GUTAI〉となり、白髪は〈SHIRAGA〉となったが、吉原は〈YOSHIHARA〉になったのだろうかと思った。著者の概念である〈行為Φアート〉というキーワードは少し判りづらいが、具体という流動的にプラークシスとポイエーシスの入り組む〈美術家集団行為〉を理解するための、行為そのものがアートであるという、具体への思いを主張するために導いた自己表明なのだろう。  はたして、具体の国際的評価とは〈行為Φアート〉としての総体そのものへの評価なのか、もしくは集団の中の突出した個々の作家の才能の集結した、多様な痕跡物に対しての評価なのだろうか。本書では、作家の経済的評価を示すセカンダリーマーケットの売り上げについても言及しているが、具体の中では白髪一雄が断トツの売り上げだ。欧米のペインティングの文脈とは異なる、日本人独自の身ぶりから発生した行為として、白髪は国際作家として認知されているが、もしかして〈吉原GUTAI〉の評価は、まだ未知の創造の宙をユラユラと漂ったままなのだろうか。  白髪を含め、戦後の日本人の精神構造を新生させるために集合した具体の身体性と感情は、アクションというムーブメントへと収斂していったが、吉原治良の行為だけがブランクだ。  最初に見た、吉原のあの簡素な絵をもう一度思い返す。吉原の内実は、複雑だったと想像する。吉原の描いた、無から派生した日本のミニマル表現。イベントを統括するオルガナイザーとしての肖像。展覧会を創る演出家としての態度。吉原治良は、その先にある、美の価値の変容を真っ先に見抜いていたひとりに違いない。その行為の総体である〈吉原GUTAI〉の未知なる創造に、まだ世界は追いついていないジレンマが、大井一男の多面な言説の集合から熱く伝わってくる。(なかせこ・けいしん=アート・ディレクター)  ★おおい・かずお=株式会社ホワイトストーン執行役員副社長。現在、具体美術の研究、現代陶芸制作を行う。岡山大学ならびに京都芸術大学(通信制)美術学部陶芸専攻卒。著書に『美術商・岡倉天心』など。一九五二年生。

書籍

書籍名 吉原GUTAI論
ISBN13 9784846025434
ISBN10 4846025438