見えるものと見えざるもの
松岡 正剛・福家 俊彦・末木 文美士著
小田 龍哉
いま仏教に何が求められているのか、何をしなければならないのか。そう問いかけて本書ははじまる。編集工学者・松岡正剛、三井寺長吏・福家俊彦らによるプロジェクト「近江ARS」の活動の柱であり、仏教学者・末木文美士を招き開催された「還生の会」の活動記録第一弾としてまとめられたのが本書である。
本書の見どころのひとつが、著者らによる丁々発止のやりとりだろう。二〇二四年八月に惜しまれつつ逝去した松岡だが、ここでは天台密教の、そして日本仏教史研究のそれぞれ第一人者である福家と末木と膝を交え、現代日本社会を覆う閉塞感を、仏教という知のアセットを「OS」にして突破できないかと探る。全八回の「還生の会」のうち第一回〜第四回の内容を収めた本書では、「日本仏教」「国家と宗教」「本覚思想」「中世仏教」とテーマが展開してゆくが、著者らの語り口は、菓子のもてなしや声明といった趣向を凝らした会の設えから動もすれば早合点してイメージしてしまいそうな、口当たりのいい日本文化論とは一線を画すものだ。
例えば僧侶の書ひとつを取っても、空海の筆の自由闊達さよりもむしろ、最澄の「久隔帖」が「命懸け」の書であったことに焦点があてられる。国家との関係においては、最澄が制度化しようとした僧俗の通戒・大乗戒を取り上げた末木が、「誰が見ても「悪い」ということが、どこのレベルで言えるのか」と今日の倫理観に水を向ける。そして、現代ではバタイユやドストエフスキーらが描いたような清濁あわせ呑むポストモダン的人間観ではなく、トルストイ的な、愚直なまでの理想論が求められているのではないか、「つまりもう一度、善悪というものを切り分けないといけないのではないか」と問いかける。
「そういうのは、蹴飛ばしてやればいいんですよ」、と文化までもが有用性で評価されてしまう昨今の風潮を一刀両断にする松岡に対して、「蹴ってすむならば」と末木は苦渋を滲ませる。独自の「編集工学」を掲げ、アカデミズムとは終始一線を画す立場で戦後知を体現してきた松岡と、アカデミシャンとして、松岡の憂える「人間の心と関係のないコンプライアンスでできあがった」ポスト戦後社会と対峙してきた末木との応酬は、互いへのリスペクトに溢れつつも、それぞれの背負った世界や時代がぶつかり合う思想バトルの趣も顔を覗かせ、スリリングな読み応えがある。
そんな彼らの議論の展望を開く鍵として期待されるのが、日本の王権と神仏の関係性を読み解くにあたって末木が提唱してきた、「顕と冥」という概念モデルだ。「顕」は見えるもの、「冥」は見えないもの。言語の媒介によって成立する公共性の領域が前者で、後者は言葉では合理化できない他者、ひいては死者たちの領域とされる。例えば近年の公共宗教論のような、西欧プロテスタンティズム由来の「宗教」概念と不可分な世俗主義の公共空間の普遍性を根本から見直し「複数の近代」の可能性を模索する学問的潮流とも強く響きあう、グローバルで今日的な視程を備えたモデルといえるだろう。
そして、日本―仏教をラディカルに語り直そうとするそのこころみを仏教者の立場から受け止め、さらに西洋思想やアートなど幅広い観点を鏤めつつ近江や三井寺という場所へと開いてみせる「ワキ」を努める重要な存在が、福家である。福家は、近江や三井寺をマージナルな「別所」なのだと表現する。三井寺とゆかりの深い観世流能楽師・河村晴久によって能仕舞が舞われ、その顕と冥のありかが説かれたとき(第四回)、確かに「ARS(Another Real Style)」が本文の行間からも立ち上ってくるように感じられた。
現在、すでに「還生の会」第五回〜第八回の内容を収めた本書の続編も刊行準備が進んでいるという。さらにどのような「別日本」が示されるのか。心待ちにしたい。(おだ・りょうすけ=同志社大学嘱託研究員・文化批評・思想史)
★まつおか・せいごう(一九四四―二〇二四)=編集工学研究所所長・編集者。著書に『知の編集工学』『擬 MODOKI』など。
★ふけ・としひこ=天台寺門宗総本山三井寺(園城寺)長吏。編書に『園城寺文書』全七巻、著書に『三井寺の文学散歩』など。一九五九年生。
★すえき・ふみひこ=東京大学名誉教授・仏教学。著書に『日本宗教史』『草木成仏の思想』など。一九四九年生。
書籍
| 書籍名 | 見えるものと見えざるもの |
| ISBN13 | 9784393134603 |
| ISBN10 | 4393134605 |
