映画時評 9月
カンドゥン「リンカリンカ~あの夏の先」
伊藤洋司
ある日、少女のサムキは小学校の同級生で親友のラモの家に泊まる。翌朝、サムキは先に目覚め、棚に置かれた刺繡の綺麗な財布に気づくと、手に取って見とれる。「サムキ、起きたの」と部屋の外からラモの母親が尋ねる声がして、少女は反射的に財布を後ろ手に隠す。盗む仕草自体は描かれない。次にその財布が登場するのは、リンカという、夏の野遊びのようなチベット特有の社交の場でのことだ。野原に設置されたテーブルを大人たちが囲む。すると、「財布を拾ったんだって」と父親がサムキに不意に聞く。少女は財布のなかのお金を父に渡し、「お金はいらないから財布は持っていたい」と言う。その後、律儀な父親は財布の持ち主を探し、娘は落とし物を届けた優秀な児童として追加点を得て、上海の学校に行けることになる。だがその結果、彼女とラモの間に深刻な亀裂が生じ、さらには父親との間にも溝ができる。カンドゥンの『リンカリンカ~あの夏の先』が語るのは、この出来事が生んだ心の傷をめぐる物語だ。
これらの出来事は大人になったサムキの回想として語られるように見えて、実は、彼女自身が撮影している自伝的映画の一部である。観客がこの事態を把握するのは、ロケ現場の場面で、監督のサムキが小学生のサムキとラモを演じる女の子たちと話す時だ。自伝的映画には噓が入り込む。ただし、『リンカリンカ』が問うのは自伝の虚構性というよりもむしろ、人が事実だと思い込むものに潜む噓である。
映画の冒頭ですでに、財布の件が会話に出てきていたことに注意しよう。大人になったサムキが故郷であるチベットのラサに戻ってくる。夜の庭で彼女が財布のことを尋ねると、「忘れたな、そんな昔のことは。古着と一緒に寄付したかな」と父親が返す。この微妙な噓に表れた父の気持ちに娘が気づくのは、映画の後半でのことだ。そしてその時、財布の出来事に関する認識のずれがより大きく、より明白な形で、別の人物との間で反復される。
夜のパーティーで、サムキとラモが再会する。サムキはラモとの関係について映画を撮っているのに、ラモ本人と向かい合わせに座っても、すぐに彼女と気づけない。二人はまともに話もしないまま集いが終わる。男友達が気を利かせて、サムキがラモを家まで自動車で送ることになる。車内で二人が話す。「小学校を卒業して以来、会ってない」と、ラモ。「私の祖父の法要で会わなかったかな」と、サムキ。この再会で、ラモがサムキを泥棒と言い、喧嘩になった筈なのだ。だが、ラモは再会を否定し、代わりに小学校六年生の時の喧嘩を話す。サムキはそれを思い出せない。
映画の撮影が終わり、サムキのもとに財布が届けられる。送り主の姿は映されないが、確かにそれは幼い頃にサムキが盗み、父親を通じて返された財布である。だが、刺繡の綺麗な財布ではなく、子供用のごく普通の財布にすぎない。この違いは本当に映画の創作によるものなのか。ともかく、この子供用の財布は言わばリアルなものの小さなかけらである。それは、『疑惑の影』の結婚指輪や『見知らぬ乗客』のライターのように、鏡像的な二人の間を行き来しつつも、この鏡像的関係を逸脱する。そして心の傷を越えて、ただのものとしてサムキのもとに届く時、このリアルのかけらは象徴秩序の修復を可能にするのだ。
今月は他に、『だぁれかさんとアソぼ?』『見えない娘 THE INVISIBLES』などが面白かった。また未公開だが、ソフィー・ルトゥルヌールの『イタリア旅行』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
