バウムガートナー
ポール・オースター著
大宮 勘一郎
オースターの愛読者であれば、特別な感慨を持たずに読むことの難しい「最後の小説」である。「1」から「5」まで章立てされた二百ページほどの本作は、前作『4321』などと比べれば小ぶりに見えはするものの、以前の作品スケールに戻ったとも言える。七二歳を迎えるプリンストンの哲学教授バウムガートナーをめぐる物語は、老人らしい小さな忘却/回想の連鎖を発端に、コミカルに動きはじめる。その連鎖のなか、彼は火の消し忘れで焦がした古鍋に触れ指に火傷を負い、次いでその火傷を忘れて手すりを摑み激痛に見舞われ、階段の位置を足が忘れ、滑落する。床に転がる古鍋を怒りに任せて蹴飛ばすと、その来歴が忘却から徐々に浮かび上がる。鍋は、一〇年前の水難事故で亡くした愛妻アンナとの馴れ初めに深く関わる「物」だったのである。この「1」を受け、続く「2」では、詩人でもあったアンナが濃密に回想されてゆく。オースターが愛読するポオの詩「アナベル・リイ」をどことなく思わせるアンナの死を、彼は弔いきれぬまま十年ほどを過ごしたが、この間むしろ執筆は進み、何冊もの単著を上梓している。蹴られた古鍋は、そのような生の表面的充実に懐疑を突きつける。
物語に能動的に作用する「物言う物」は、オースターの作品に頻出する。道具的用途の彼岸から襲いかかる焦げついた鍋は忘却の形象であろう。本作ではさらに、さまざまな役割を担って登場する動物たちが見逃せない。それらの姿によって、小さな暴力が大きな暴力を想い起こさせ、小さな忘却が大きな忘却への通路となる。
「老い」という主題とオースターが断続的に取り組みはじめたのは二〇年ほど前に遡る。本作では老いに固有の忘却/回想の振動の中で、別の時の度重なる襲来に、徐々に身を預けてゆく姿が印象的である。意志では如何ともしがたく身体がこの振動に従ってしまい、するとさまざまな時の層が、バウムガートナーという一つの生のなかで緩やかにつながり、混ざり合ってゆく。死者アンナから電話さえ来るそのような彼の生を、彼女にならい「中間地帯」の生と呼ぶことができるかもしれない。
アンナの語りを聞いたバウムガートナーの周囲は、思いがけず得た友人たちとの集いによって賑やかなものとなり、求婚はやんわり退けられたものの、新たな恋愛も生じる。つまり彼の生は、時間および空間と和解を果たし、広がってゆく。喪の作業を成しとげて生の側に戻ったかのような「3」は小春日和の趣である。しかし内なる「中間地帯」が再び蠢くなら、彼はまたその力に引き込まれる。「4」ではズボンのジッパーの閉め忘れを機に、妹のこと、父母のこと、さらに彼らの故郷のことへと回想が大きく遡ってゆく。その極みとして、母方の故郷である西ウクライナ、イヴァーノ・フランキーウシクでの経験が回想される。帰属上の争いが繰り返される歴史を持ち、ユダヤ人迫害の舞台ともなったこの地に関する詳細は読んでいただくとして、そこで出会った詩人が語る戦争末期の話から、オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの詩「東方にて」の末尾が想い起こされるのは特筆しておきたい。
最終「5」では、「中間地帯」の三度目の(最後の?)大きな蠢きがバウムガートナーに襲いかかる。勿体ぶった言い方をすれば、アンナの「読む者を不安にする天才」が牙をむき、彼女の生身の亡霊が彼を「新たな生」のはじまりへと抗しがたく誘うのである。その彼岸への呼び声に応じる彼が道に迷う最終場面は、トラークルの別の詩を想い出させよう。「さまよう人来たりて静かに踏み入る―—/苦痛が閾を石と固めた。」(「ある冬の晩」)
『孤独の発明』、『インヴィジブル』などでも用いられた説話的現在の時制は、バウムガートナーの生の現在を複合的で未決な流れとして描く三人称の本作にもしっくりと合う。また、ページの半分ほどにも及ぶ累積的な構文が以前にもまして目立つのも、この老いのテクストにはふさわしいと感じる。「切ることができない文」を構築しているのであろう。さらに、電話のアンナの語りは魅力的で、これを評者は、自由間接話法の特異形だろうか?と見立てきれずに読んでいたが、翻訳はこれを一人称と三人称を絶妙に使い分けて訳し、アンナという存在=非在の揺らぎを写しとっている。評者はただ頷いた。(柴田元幸訳)(おおみや・かんいちろう=東京大学教授・ドイツ文学)
★ポール・オースター(一九四七―二〇二四)=作家。ニュージャージー州ニューアーク生まれ。著書に『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』の「ニューヨーク三部作」、『4321』など。
書籍
| 書籍名 | バウムガートナー |
| ISBN13 | 9784105217235 |
| ISBN10 | 4105217232 |
