「夫婦」不在社会
三宅 香帆著
川口 好美
たしかに「あとがき」には「『群像』で連載させてもらえるなら村上春樹論をやりたいな、とぼんやり思っていたので(……)」とあるものの、著者は旧来的な文芸評論の囲いから作家と作品を軽やかに、プラクティカルに解き放っている。したがって本書はかならずしも村上春樹論として読まれる必要はない。文芸評論の神話を剝がすことで、文芸評論を異なるステージに連れて行く。本書もまた、著者らしいそんな野蛮な両義的試みの書である。先ごろ村上春樹〝全集〟の刊行が発表された。このタイミングで本書が刊行されたことはきわめて象徴的であると思う。
「戦後日本でもっとも読まれている作家のひとり」である村上の物語を「日本社会の鏡」とみなして批判的に読み解いていく本書は、現代日本でもっとも読まれている文芸評論家である三宅香帆の手になる「日本社会の鏡」である。一点の曇りもなく磨き上げられた鏡面。そこに映し出される批判=問いとは、つぎのようなものだ。
〈日本では親子の物語がひんぱんに語られるいっぽうで、現実的なパートナーシップの崩壊や修復をめぐる物語があまり(あるいはほとんど)語られないのはなぜか。〝夫婦〟の物語が少ないのはなぜなのか。夫不在の母子愛の物語が多くを占めるのはなぜなのか。夫という存在が、男の成熟の表象として描かれないのはどうしてなのか――言い換えれば、なぜ、物語の中で夫(男)は妻(女)と向き合うことができないのか、コミュニケーションが成立しないのか。〉
「文芸は現実の欲望をうつすものだが、同時に、文芸は現実の欲望に影響を与えるものだから」。こう記す著者が村上作品をはじめとする様々な物語に鋭敏に嗅ぎ取る、「欲望」の変化。それをかみ砕けば、(父子関係のような)タテ方向のコミュニケーションと責任から、(対等な夫婦関係のような)ヨコ方向のコミュニケーションと責任へ、となるだろう。もちろんそれはいまだ兆候にとどまるものだ。じっさいには、権力をめぐる男たちの血みどろの闘争を母性愛信仰にのっとった女性性で包み込んだような言説が日々エンタメとして生産され、消費されている。タテ方向の「欲望」が衰微しているとはお世辞にも言えない状況だ。しかしそれでも――歴史的に累積してきた家父長制的構造と、現在の新自由主義的生産・生活、両者の混線が作り出す複雑なイメージの中に、現状を更新する「欲望」の可能性を探る。海底から小石をすくい上げるみたいに。『娘が母を殺すには?』や『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の問題意識がそこに鮮やかに通底している。
あえて村上春樹論という面にかぎるなら、批評文としての本書のピークは短編「ドライブ・マイ・カー」について述べたつぎの一文であるとわたしは思う。「捩れているが、「妻が自分と異なる他者であることに気づく」というよりは、「妻が自分と異なる他者であることを受け入れられないことに気づく」夫の話なのである」。つまり〈「夫婦」不在社会〉=ヨコ方向不在社会の困難は、ディスコミュニケーションのみに起因するわけではない。「(……)妻が自分の一部であるかのように感じてしまう夫の感覚もまた、夫婦の困難をつくっている」。
他者は他者であるがゆえに、いつでも自由にわたしを置いて去ることができるということ。頭ではわかっているつもりでも心底ではその事実を認められない。女性の扱いは親切でスマート。コミュニケーションもきちんと取れる。そのような男性の内心に根深く巣くう、厄介な女性蔑視。その通りだ。
だが、もやもやが残る。なぜ他者(との関係)はある日とつぜん不可逆的に変化するのか。いともたやすく破壊されるのか。消失するのか。村上春樹はそう問い続けるきわめて不器用な物語作家に見える。言い換えれば、村上が描く人間は必要以上に、他者が他者であることを知りすぎている。この奇妙な「欲望」を考えること。それもまた作家の晩年に向き合う文芸評論に課せられた仕事の一つだろう。(かわぐち・よしみ=文芸批評家)
★みやけ・かほ=文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。著書に『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(新書大賞2025大賞)『娘が母を殺すには?』『「好き」を言語化する技術』『考察する若者たち』『ニュー日本文学史』など。一九九四年生。
書籍
| 書籍名 | 「夫婦」不在社会 |
| ISBN13 | 9784065431740 |
| ISBN10 | 4065431743 |
