2026/04/03号 3面

京都 祈りと差別の千二百年

京都 祈りと差別の千二百年 磯前 順一著・吉田 亮人写真 小松 和彦  著者は幼い頃から「なぜ、同じ人間であるにもかかわらず、人は人を差別するのか」という疑問を抱き、宗教史研究者となって以降もこの問題を問い続け、この疑問に対して「自分の理解するところでは、個人ではどうすることもできない理由をもって、その人間を社会や集団から排斥する不当な攻撃が差別なのだ」あるいは「理解できない事物に対する恐怖や不安の表出の一形態だ」と述べている。たしかに最も抽象化し普遍化した差別の理由あるいは定義はそういうことになるのだろう。  だがそこで問題になってくるのは、当然のことながらそれでは「個人ではどうすることもできない理由」あるいは「理解できない事物に対する恐怖や不安」とは何か、なぜそれゆえに「その人間」が差別されるのか、「その人間」を差別する「社会」や「集団」とはどのような「社会」であり「集団」なのか。さらに言えば、差別する側や差別される側の人々はその差別をどのように受け止め、あるいは納得し、あるいは克服しようとし、また克服してきたのか等々の問題であろう。  本書はこの重たい問題に果敢に挑戦した力作で、そのために最もふさわしい地として選びだしたのが、千二百年の歴史を有し史料も豊富で研究の蓄積もある「京都」であった。  著者の考察の眼目は「貴・賤」「尊・卑」「浄・穢」「聖・俗」といった対立しつつも相互に支えあった社会的側面であり、そこで隠蔽される「性・病・死・殺」という動物的側面であって、それらが凝縮して顕現していると思われたのが、鴨川の東側、それも四条から五条の辺りの地域で、博覧強記の著者は歴史資料はもちろんのこと、文学から絵画、芸能等の資料を縦横に繰り出して、上述の問題の考察を深めている。  著者が京都における差別の原型とみなしているのは、秩序を創出する「天皇・皇族」、その秩序を構成する「良民」、そこから除外された「奴卑」である。前二者すなわち姓や位階などを与えて課税する立場と姓や位階などを得て納税する立場の人々が「身分社会」を構成しているわけだが、後者の奴卑はその外側にあって前二者の「身分社会」を存立させる基盤となっているとともに、彼らが忌避する「穢」に係わる仕事を担わされることにもなったのである。  このいわゆる「身分外身分」の人々には様々な存在形態が認められるが、著者はその後の歴史的経緯・変化を考慮して、「穢多」と「癩者」を含む「非人」とに視点を絞り込む。  それというのも、穢多が「餌取り」に由来する呼称であるとされるように「職人」の一種であるのに対して、非人は周囲からの社会的評価や置かれている境遇に基づく呼称であったからである。  こうしたいわば考察の枠組みを念頭に置きながら、著者は「六条河原」(第一章)に足を運ぶ。ここはかつて「河原者」と呼ばれた者たちが住んでいた所で、罪人の処刑場でもあり、牛馬の死体などを処理する所でもあって、それらに係わる者たちにも多様で複雑な権力・支配の関係が及んでいたことが解き明かされる。そして著者がそこに見いだしたのは「彼らには自由も平等もなかった」ということであった。  次いで著者が足を進めたのは「弓矢町」(第二章)である。ここで著者が思いをめぐらすのはこの地域の一角に近世に設定された癩者の村「物吉村」である。ここでも中世には祇園社に隷属する非人である犬神人が癩者を支配・使役していたが、近世になって弓の制作に係わっていた犬神人(弦召)が町民身分となったことによってこの村が誕生したという経緯があった。  近代以前は「癩病」は前世の悪行の報いという仏教的説明によって理解されており、現世においては不可能であったその境遇からの唯一の救い(抜け出す先)とされたのが「来世」であった。著者はこの問題を、さらに歩みを進めた「六道の辻」(第三章)および「清水寺」(第四章)に佇んで観音菩薩や阿弥陀如来への信仰を素材にやはり詳細に論じている。  ここで著者は一遍上人の言葉を手がかりに、宗教学者としての自己の主張のエッセンスを次のように述べる。  「自分を支える者は自己の主体ではなく、むしろ南無阿弥陀仏の六字念仏という他者になる。自己という主体そのものが他者のまなざしのもとに捉えられることで、はじめて存立可能となる。しかし、そこに存立しようとする主体の側の捉え返しがなければ、そもそも自覚というものは成り立つすべはない」。あるいはまた「人間の側がその他者から自己に注がれる謎めいたまなざしを捉え返し、受動性のなかに能動性を生じさせなければならない。それがまなざしの『捉え返し(リターン)』と私が呼ぶ、人間の主体性が生起する瞬間である」。  そして、読者に次のように呼びかける。「みずからの欲望を無批判に肯定する世俗社会の特質に対して、宗教的な伝統を掘り起こすことで否定性の契機を取り上げて、病・老・殺・死を人間の本質として社会的認識の中心に据える必要がある」と。  著者は「区別を差別に置き換えることのない社会をどうしたら構想することができるのか」等を模索しているが、なお構想をめぐらしている段階に止まっているようである。  さて、これを受けて本書を読んだ読者は、どうすべきなのだろうか。はたして自己への「捉え返し」がしっかりできるだろうか。  いずれにせよ著者にのみ任すのではなく、私たちも思索を深めていかねばならない課題である。(こまつ・かずひこ=国際日本文化研究センター名誉教授・民俗学)  ★いそまえ・じゅんいち=三島海雲記念財団学術委員・宗教学。著書に『近代日本の宗教言説とその系譜』『閾の思考』『死者のざわめき』『昭和・平成精神史』『新・学問の勧め 研究者失格!』、共著に『GHQ民間情報教育局と「信教の自由」 GHQ/SCAPの神道指令と岸本英夫の宗教学』、監修に『差別と宗教の日本史』など。一九六一年生。

書籍

書籍名 京都 祈りと差別の千二百年
ISBN13 9784750518930
ISBN10 475051893X