トランスジェンダーの生活史
宮田 りりぃ著
周司 あきら
トランスジェンダーという言葉は、2010年代後半以降、差別言説で登場する頻度が増えた。LGBT理解増進法や東京オリンピックが話題になるタイミングでは、右派政治家もトランス女性を悪魔化した。ともすると、20年前に性同一性障害者を「心身の性が一致しない病気」と捉えて「救済」しようとした歴史を忘れてしまうくらいに。どのようなかたちでトランスの人々が社会問題化されるにしろ、自分の性別に違和感をもつ人々は昔から存在していた。まず、その現実をおさえておきたい。
とはいえ、トランスの人々の葛藤は個人の内面の話では済まない。本書は「トランスジェンダーもジェンダー化された存在である」と捉え、その葛藤を社会的な文脈のなかで把握していく。調査対象者たちは性別移行への頑ななこだわりを持っていることがある(トランス性への「固着」)が、身近な存在や周囲との相互作用の中で葛藤を抱え(「妥協」)、何を優先し自身をどう受け入れるか一生涯で変わっていく(「変容」)。自分一人で生き方を決められるわけでもなければ、生涯通して一貫したアイデンティティを持っているとも限らない。自分を語る言葉を知っているか、職場の環境はどうか、家族の反応はどうか。社会との接点で、現在や未来が決まるのだ。
だからこそ『トランスジェンダーの生活史』と題された本書で、女装や男性学への関与、当事者の同族嫌悪に至るまで生き生きと記されていて、私は嬉しかった。まさに生活そのものである。もっと長く読みたい。たとえば「3年B組金八先生」で性同一性障害の役が出てきたとき、「上戸彩かわいいやん」と他人事の感想しかなかったという人。限定的なメディア表象しかない時代に、それが自分に関わることだと思えないのはもっともである。あるいは、女装やニューハーフの「お姉さん」に強い嫌悪感を抱いていたけれど、数年後に自身もそのような立場になった人。失礼な話だが、このエピソードには笑ってしまった。
さらに各章の間には、著者の「生活史」も挟まれている。初心者でも女装姿のまま働けるからとニューハーフヘルスで働いたり、かと思いきや「男のフェスティバル」や男性学で「男らしさの抑圧に苦しむ男もいる」と知り、性同一性障害概念より男性学のほうが悩み解消に役立つと考えたり。これらの細微な「問題経験の語り」は、法や医療の整備、メディアや教育において十分に語られてこなかったものだ。
では、なぜトランスジェンダー像は画一的になりがちなのか。それには、当事者たちの戦略という側面も確かにあった。1990年代後半の医療の時代には、性別適合手術が優生保護法(現・母体保護法)違反ではなく正当な医療的介入であると公に認めさせる必要があった。2000年代の法の時代には、男女二つにきっぱり分かれた法的性別を変更する上でどうしても「線引き」が求められた。結果的にそのラインは、ステレオタイプな男女に当てはまる当事者と、そうでない当事者を二分してしまったわけだが。
本書の面白いところは、性同一性障害の定義に沿わない女装者(パートタイムで女装行為を趣味として楽しむ男性を念頭におく)に注目するところだ。巷には「性別に悩むトランス女性と、趣味で楽しむだけの女装者は別ものの存在で、見分けがつく」といった意見もある。しかし、女装行為をするなかでアイデンティティに気づく人はいるし、性のあり様で困難に直面する点も似ていて、それほど簡単に両者は分けられないものだろう。
女装者は、日常生活では男性としてのマジョリティ性を備えているが、女装家としての困難は看過されやすく、男性運動からも性同一性障害の枠組みからも周縁化されてきた。何が困難を生み出しているか考えるためにインターセクショナリティの観点から見るべき、という著者の提言は今後の進展が待たれる。総じて、語り落とされてきた生き方を掬い上げ社会の側を問う、信念がある一冊だ。(しゅうじ・あきら=作家・主夫)
★みやた・りりぃ=関西大学非常勤研究員・ジェンダー論・トランスジェンダー研究。共著に『セックスワーク・スタディーズ』『クィア・スタディーズをひらく2』など。一九八一年生。
書籍
| 書籍名 | トランスジェンダーの生活史 |
| ISBN13 | 9784771039865 |
| ISBN10 | 4771039860 |
