柳宗悦 無地の美学
佐々 風太著
安藤 礼二
本書、『柳宗悦 無地の美学』の持つ独創性は、一般的には「民藝」(民衆的工藝)を称揚し、それを実践していく運動、「民藝」運動を組織した人物として知られる柳宗悦という表現者が、一貫して「無地の美学」、「無の哲学」にして「空の宗教」を探究した宗教哲学者であったことを、柳のテクスト自体から明らかにした点にある。本書を構成する重要な概念のほぼすべては柳自身が残してくれた表現に由来する。
著者は、それら、柳が生み出した創造的な概念を、本書全体を通して見事に再生させている。柳にとって「無」や「空」は否定ではなく肯定、「無限」を絶対的に肯定する表現行為であった。柳自身、晩年の論考(「茶の功罪」)で、こう述べている。茶器に「無地」のものが多いことは誰もが気づくところであろう。しかしながら、「この無はただの否定ではなく、無限に有をふくむものである」。こうした「無限」、著者いうところの「豊穣な無地」が、無名の表現者たちによって具体的な「器物」、すなわち「もの」として表現され続けてきたのである。
柳の宗教哲学は抽象的な思惟にとどまらない。「器物」を自らの手で創造するという具体的な実践に裏打ちされたものであった。そういった点で、柳は先行者たる西田幾多郎、鈴木大拙とは異なった道を歩んだ。著者は、繰り返し、柳は「無」と「もの」との出会いを注視し続けたと説く。「柳は最初期から一貫して、器物というある極小世界を通して「無限」を注視した」。「無限」は、具体的な「もの」、つまりは「器物」という芸術作品を通してしか実現されない。作品を制作することこそが「無限」を表現することなのである。そのように捉え直された柳の宗教哲学は、「民藝」を再考させるだけでなく、「哲学」という営みそのものにも再考を促す。
哲学とは抽象的な思惟のみならず、具体的な実践にして創造行為がともなわなければ、少なくとも、この極東の列島においては成り立たなかった。柳の宗教哲学は、近代における一つのその貴重な実例であり、そのことによって、おそらくは世界哲学を定義し直すことにもつながる。哲学とはなによりも創造行為、具体的な「もの」、つまりは「作品」を産出する創造行為なのだ。「無限」を造型すること、「無限」をいまこの場に「もの」を介して実現すること。それが「ひと」との関わりを生む。柳の宗教哲学の読み直しにして脱構築(解体にして再構築)は、「民藝」の読み直しにして脱構築へと重ね合わされる。「無地」を主題とすることで、「民藝」をそのなかに含み込んだ形で、柳の宗教哲学を総合的に理解する道がひらかれる。そのような理解はこれまで存在しなかった。
「民藝」を無視し、「民藝」を否定するのではない。なぜ、柳が「民藝」を発見し、それを土台として、その彼方に未曾有の宗教哲学にして表現哲学の実践的な体系を築き上げることができたのか。そのことが、本書の第一章から第三章を通して、浮き彫りにされていく。第一章では「民藝」に先立つ『白樺』の時代の柳のテクストが読み解かれ、第二章ではまさに「民藝運動の誕生と展開期」の時代のテクストが、第三章では「民藝」を基盤とした柳の新たなステージ、「仏教美学」形成期のテクストが読み直されていく。そこでは、一貫して、「単調」とは異なる「無限」をそのなかに含んだ造型として「無地」が説かれていた。
「民藝」は、そうした「無地」をさまざまに多様な「作品」(「器物」)へと解放したのだ。その後、柳は、「無地」が具体的な「作品」として宿されるプロセスを「仏教美学」として結晶化させる。その鍵概念となったのが「妙好人」であり、「妙好人」たちが創り上げる「妙好品」、あるいは「窯変」、すなわち人為では決して制御できず、自然そのものがおのずから贈与してくれた、偶発的でありながら発生的でもある表現(「造形美」)であった。「窯変」は、「妙好品」は、偶然に生まれた「疵」(「破形」や「奇数」、「不完全」や「麁相」)を排除しない。そうした「疵」(「傷」)をこそ自らのかけがえのない表現とする。「傷」を持つことこそが世界の可能性を、世界の「美」を表現しているのだ。
本書は、柳宗悦という個別の表現者の持つ現在まで十全に理解されることのなかった可能性を明らかにしてくれるだけでなく、哲学そのものの持つ現在まで十全に理解されることのなかった可能性をも明らかにしてくれる。(あんどう・れいじ=文芸評論家・多摩美術大学教授)
★ささ・ふうた=東京科学大学リベラルアーツ研究教育院特別研究員・日本民藝協会機関誌『民藝』編集委員・近現代工芸(主に柳宗悦・民藝運動)。
書籍
| 書籍名 | 柳宗悦 無地の美学 |
| ISBN13 | 9784881254080 |
| ISBN10 | 4881254081 |
