- ジャンル:科学・技術
- 著者/編者: ヴィンセント・M・フィゲレド
- 評者: 大隅典子
心臓とこころ
ヴィンセント・M・フィゲレド著
大隅 典子
美しい装丁に目を奪われた。以前にパリの国立中世美術館で見た15世紀のジャカード織のタペストリーに似ているなぁと思ったら、ルーヴル美術館所蔵のもので、タイトルは「心臓の捧げ物」。騎士らしき人物が右手の人差し指と親指の間に持つ小さな赤いハートを女性に差し出す様子が描かれている。
心臓という臓器が胸腔の中にあることを私達は普段は忘れがちだが、とくべつ意識しなくても心臓は時々刻々きちんと拍動し、血液を全身に送り込んでくれる。その拍動がうまくいかなくなると生命の危機に陥ることに、人類は早くから気付いていた。
著者のヴィンセント・フィゲレドは心臓病の専門家。30年間、心臓病専門医かつフィジシャン・サイエンティストとして活動してきた。とくに、心臓が損傷、アルコール、ストレスにどのように反応するかについて研究し、200本以上の論文も発表している。
だが、彼の興味は医学的な対象としての心臓に留まらなかった。いわば、彼は心臓の歴史学者でもある。「The Curious History of the Heart: A Cultural and Scientific Journey」という原著タイトルは、彼の人生そのものなのだろう。一人の学者が広い分野にまたがる「人類史における心臓の年表」をまとめあげたことに深い敬意を表したい。
本書は6部から構成され、まず「古代の心臓」から始まる。粘土板に残された数千年前の記録は、当時の人々も心臓の重要性に気付いていたことを示す。心臓は命そのものであり、だからこそ魂と考えられ、さらに感情とも繫げて考えられた。心臓を表す古代エジプトの「イブ」という言葉が、「肉体としての心臓を意味することもあれば、精神や知性、意志、願望、気分、理解を指すこともできた」という多義性を有することはとても興味深い。
著者が探求したのは西洋文明だけではない。古代中国では心臓は「ほかのすべての器官の〈君主〉」と捉えられ、中国哲学では「心は人の気質や情動、自身、ほかの人や物に対する信頼」を意味することもあるという。逆に、頭蓋の中に収まる脳は中国伝統医学で五臓六腑に含まれていないというのは、脳科学を専門とする評者として、改めて考えさせられた。なお、原著に挙げられている『黄帝内経』や『医学入門』の記載は、もともとの出典の言語(漢文)として引用されている。訳者や編集者が本書をどれほど大事に日本の読者に届けようとしたのか、その努力と誠実さにも心を打たれた。
続いて第2部では、いわゆる暗黒の中世時代のさまざまなエピソードがイスラム、北欧、メソアメリカなどから集められ、バイキングは「心臓が小さく冷たいほど、その戦士は勇敢である」と捉えたのに対して、アステカでは、選ばれた若い男性の心臓がまだ拍動している「熱い」うちに生贄として神に捧げる儀式が行われたという。いったい著者はどのようにして、これだけ多様な心臓に関する知見を集めたのだろう。
第3部では、美術、文学、音楽の中で扱われてきた愛の象徴としての「ハート」について取り上げられ、表紙を飾るタペストリーについてもここで言及されている。種々の美術館・博物館で所蔵作品をデジタルアーカイブするようになったことにより、私たちは遠い国まで出向かなくても鑑賞が可能となり、このように書籍の挿絵としての利用も容易になった。
第4部は「心臓学入門」であるが、一般の読者にもわかりやすい解説が為されているので、医学部の低学年の学生にもぜひ本書を勧めたいと思った。ここでは医学と科学の観点から、身体の一部としての心臓にフォーカスが当たっているが、ストーリーテラーとしてのフィゲレド博士の才能が、遺憾なく発揮されている。
最後の第5部では、「近現代における心臓」として、最先端の心臓手術、ストレスによる「たこつぼ心筋症」(著者の専門)や、「心-脳接続」について語られる。心臓が単に血液を送り出すポンプとしての機能を持つだけでなく、心臓の働きそのものが「こころ」に影響するという新たな心臓の捉え方が読者を未来へと誘う。
本書はいわば、フィゲレド博士の心臓に対する飽くなき興味と知識によって織りなされた美しいタペストリーのような作品である。そこに織り込まれたさまざまなモチーフは、まさに「ハート」にまつわるワンダーランドだ。(坪子理美訳)(おおすみ・のりこ=東北大学大学院医学系研究科教授・発生発達神経科学・分子生物学)
★ヴィンセント・M・フィゲレド=循環器内科医・フィジシャン・サイエンティスト。アインシュタイン・メディカル・センターフィラデルフィア循環器内科医長やトーマス・ジェファーソン大学医学部教授を含め、学術医学、医学研究、教育、個人開業、上級病院経営など幅広い経験をもつ。心臓が傷害、アルコール、ストレスにどのように反応するかについて研究をしている。
書籍
書籍名 | 心臓とこころ |
ISBN13 | 9784759824049 |
ISBN10 | 4759824049 |