2026/06/19号 5面

人生にとってほんとうに大切なことを教えてくれた10のライフ・レッスン

人生にとってほんとうに大切なことを教えてくれた10のライフ・レッスン ケント・ナガノ/インゲ・クレプファー著 松井 茂  二〇世紀後半のアートは、モダニスムを払拭する抵抗文化として登場した。それは圧倒的な若者文化であり、何波にも分かれ、ヨーロッパ中心からアメリカへと場所を変えながら、波頭を崩しては間断無く打ち寄せるだろう。私は、一九八〇年代から九〇年代にかけて、そうした状況から、言わば〝洗礼〟を受けたと思う。そしてクラシック音楽界から、この時期に頭角を現したひとりに指揮者のケント・ナガノがいた。アメリカ西海岸出身の日系人というアイデンティティ、長髪というルックスで、サーファーだとも喧伝された。オリヴィエ・メシアンのような現代音楽は、もはや古典のレパートリーの側に置いて、同世代の現代音楽の初演は当然だし、フランク・ザッパの曲までもを指揮するなど、従来の指揮者像をエレガントにぶち破る新感覚は、鮮烈な輝きを放った。  こうしたポストモダン期を生きたアーティストたちは、当然の宿命として、二一世紀前半において、これまでのアートが体験したことのない、晩年様式の発明を求められる。抵抗文化の筆頭に位置づけられた若者たち、いわゆるロック・スターたちはどうだろう? 例えばビートルズは、ジョン・レノンが一九八〇年に狂信的なファンによる凶弾に倒れ──有名人という様式も新たなアーティスト像であった──、ジョージ・ハリスンは二〇〇一年に癌で亡くなり、夭折とは言い難いが早すぎる死を惜しまれた。ポール・マッカートニー、リンゴ・スターは八〇歳を超えた現在も、老いをはねのけるように活動をしている。ローリング・ストーンズも同様に活動を続けるだろう。彼らは少々若作りが過ぎている。むしろすこし後続のデヴィッド・ボウイや坂本龍一は、老いを受け止めつつ、自らに相応しくメディアに存在感を刻みながら、有終の美を準備した。ボウイと坂本とほぼ同世代を生きる、クラシック音楽界における若者文化の旗手であるケントはどうであろう?  師匠のひとりであるレナード・バーンスタインが一九九〇年に七二歳で亡くなったことを考えると、ケントもその齢をすでに越え(原著刊行時は七〇歳)、「巨匠」と呼ばれるには相応しい時宜だ。そのケントはどのように芸術観を語り、自らの経験を回想するのか? 私は興味を惹かれた。  そして本書の体裁は、語り口としてはいわゆる自己啓発本のようなスタイルであることに驚いた。「なにかを学ぶために、人々との出会いがいかに重要か」というスタンス、成功体験をポジティヴに語ろうという姿勢に、正直なところ戸惑った。とはいえ、スティーブ・ジョブズと同世代で、カウンター・カルチャーの聖地である西海岸育ちだと考えれば、こうした語り口がアートのイノベーションを培ったことにも気づかされる。  他方でケントは、日本語版のエピローグで、こうした既成の西海岸とも距離間をもった育ちであることを告白している。日系三世という複雑な心情もこのエピローグに多く書かれている。典型に収まらない非凡な音楽家の素顔は、日本語版だけに覗かせているかもしれない。「当時のポップ・カルチャーの言葉で表現するなら、自分のルーツと興味のおかげで、私はある意味ダサい人間だった」とも振り返る。  本書では、バーンスタインやピエール・ブーレーズ、イヴォンヌ・ロリオを通してのメシアン、ビョークなどとの交流に基づく芸術談義、章にこそなっていないが、世界的な建築家、磯崎新とのエピソードなど、実に話題満載なのだが、ケントの語り口は自慢のかけらも感じさせない。初耳な話題に驚きがたくさんあるのにもかかわらず、ひたすらに語り手の謙虚さが際立つのだ。  最後もエピローグからになるが、「誠実さとクオリティと人間性を基礎とする深遠な価値システムを生みだす」には、「人々との出会い」が必須だと語りかける。偉大な人々との繫がりを目的化せず、あっさりと話す。いまだに学ぼうとする態度で他者に臨む。またその姿勢で他者に教え、表現する。これこそが、「巨匠」となった後も、健全な若さを維持する秘訣なのだ。クラシック音楽における、一昔前の「巨匠」の晦渋さ、真逆の素朴さ、枯淡とか、そういった要素とは無縁なケント! その溌剌な語りは、西海岸的なブレインストーミング(=自由討論)に基づき、陳腐化した作品概念に新風を吹き込み続ける。ロック・スターの若作りとは一線を画し、「巨匠」というテンプレを一蹴したケントの芸術観を、その語り口から受けとめ、改めてその演奏に耳を傾けたい。(シドラ房子訳)(まつい・しげる=詩人・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授・映像メディア学・現代芸術)  ★ケント・ナガノ=指揮者。米カリフォルニア州バークリー生まれ。バークリー交響楽団の音楽監督(首席客演指揮者)、ハンブルク州立歌劇場とハンブルク・フィルハーモニーの音楽総監督などを歴任。二〇二六年九月よりスペイン国立管弦楽団の主席指揮者兼音楽監督に就任する。一九五一年生。  ★インゲ・クレプファー=フリーのジャーナリスト・作家。『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』紙経済部、同紙日曜版のベルリン特派員を経る。フリーデ・シュプリンガーの評伝で「年間最優秀経済ジャーナリスト賞」を受賞。一九六四年生。

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