メディアの中の女性
坂本 季詩雄・布施 将夫・北尾 泰幸・林 姿穂編著
水野 尚之
本書は、関西屈指の外国語大学の教員を中心とした十二名の研究者たちが、統一テーマのもとに様々な分野(「文学・文化」「歴史・社会」「言語・教育」)で描かれる女性像を論じた論集である。
河野弘美の「フローレンス・ナイチンゲール」論(第2章)では、良家の娘として生まれたナイチンゲールが、ヴィクトリア朝半ばには身分ある女性が就く職業と見られていなかった看護師となることを志し、最後には国家的なヒロインへと祭り上げられる過程が分析される。クリミア戦争時に野戦病院で献身的な働きをしたナイチンゲールは、当時発行部数を伸ばしていた英米の新聞などのマスメディアに「ランプを持った淑女」(命名はアメリカ詩人ロングフェロー)として英雄視される(彼女が実際に野戦病院を巡視したのは、九十年の生涯のうちで三年だった)。河野はこのようなヒロインが誕生したいきさつを、当時のイギリスの事情(フランスにカトリック教会を母体とした看護団があったのに対抗し、イギリス政府はナイチンゲールが率いる看護団を組織化した)や、ヒロインはキリスト教的慈愛の精神と矛盾しない存在であるべきという宗教的な要請があった、などの面から考察する。また「家庭の天使」という一般に流布していた標識では女性が自由になれないと考えたナイチンゲール自身が、「ランプを持った淑女」のイメージを利用した面もあったと指摘する。さらにこのイメージは、ラファエル前派の画家ウィリアム・ホルマン・ハントの『世の光』によってキリスト教的色彩を帯びることになった。こうして「ランプを持った淑女」は、ヴィクトリア朝時代の「家庭の天使」という規範に抵触することなく大衆に受け入れられた。「ランプを持った淑女」ナイチンゲールの誕生を、資料を駆使して様々な面から考察した好論である。
林和宏の「マチスモ」論(第6章)、「フェミニシディオ」論(第7章)は、メキシコ特有の風土に培われた女性差別の実情を解き明かす。「マチスモ」論では、マチスモという強き男性性への希求が、一九一〇年から始まるメキシコ革命を経て、近代化とナショナリズムの称揚という文脈において登場し、一九三〇年代後半から五〇年代のメキシコ国産映画の黄金時代に生産/消費された、と林は論じる。一方女性は、メキシコ革命期には家庭や学校、教会を飛び出し、戦地に兵士、教員、看護師として赴いたものの、革命後は従来の父権構造への従属を強いられた。そして黄金時代の映画が、女性を家庭や教会内へと閉じ込める中産階級の保守的なイデオロギーを拡散させる上で重要な役割を果たした、と指摘する。次章の「フェミニシディオ」論では、マチスモ重視がいかに女性を差別する概念となり、女性の社会進出を阻害する要因となったかが分析される。林は、様々な資料を援用しつつ、女性の社会進出を嫌う偏見と商業主義的視点から描いたフェミニシディオ(ジェンダー差別を根底にもつ女性殺害)についての報道が、メキシコに根付くマチスモ文化に依拠しており、警察当局による初動の遅れや容疑者の不処罰を招いている、と指摘する。
山本玲子の「女性と英語教育」(第9章)においては、「男子の雄弁と女子の沈黙」「女は愛嬌、男は度胸」という非対称な構図がすでに小学校から見られ、それが最終的には就職における差にまで直結するという傾向が日本に存在することが、様々な実例によって指摘される。女性は児童期から沈黙を求められ、プレゼンスがない状態に置かれており、就職においても補助的な業務にあたることが多い。このような状況を改善すべく、山本は英語の授業において自ら考案した質問紙調査を試みている。主にアメリカで開発されたプレゼンス理論を日本の英語教育に応用できる、大学が女子のプレゼンス再構築の場になり得る、と山本は確信している。「学校教育は勉強を教えるだけでなく、人格を育てる役割を果たすことができる」という結びは、読む者の心を打つ。
本稿ではとりあげられなかった論文も、それぞれの分野でジェンダーについての従来の一般的な理解や誤解に修正を迫る。また、本書で論じられた様々な問題が現在の時点での指摘であることを、編者たちは自覚している。LGBTQ+のようなジェンダー・アイデンティティの研究は今後のさらなる進展が望まれる、と本書は結ばれている。(みずの・なおゆき=神戸女子短期大学特任教授・アメリカ文学・アメリカ文化)
★さかもと・きしお=京都外国語大学教授・アメリカ文学・文化史。
★ふせ・まさお=京都外国語短期大学教授・アメリカ政治史。
★きたお・やすゆき=愛知大学教授・理論言語学。
★はやし・しほ=京都外国語大学教授・アメリカ文学・英語圏文学。
書籍
| 書籍名 | メディアの中の女性 |
| ISBN13 | 9784875719007 |
| ISBN10 | 4875719000 |
