アメリカの新右翼
井上 弘貴著
村田 晃嗣
7月11日に、ジェームズ・ガン監督の映画『スーパーマン』が、世界で同時公開された。クリプトン星の滅亡により地球に流れ着いた主人公は、やがてクラーク・ケントを名乗り、『デイリィー・プラネット』という新聞社の記者になる。誰もが知る物語だが、いかに典型的なアングロサクソン系の名を名乗ろうとも、スーパーマンは地球外から来た「移民」なのである。しかも、彼は新聞社という「オールド・メディア」で働いている。宿敵のレックス・ルーサーはハイテク企業の経営者であり、「ニュー・メディア」を駆使してスーパーマンの評判を落とそうとする。しかも、彼は外国に武器を移転して、隣国への侵略を応援している。何やら、イーロン・マスク風である。
エンターテイメントの中にも、様々な社会風刺が仕組まれている。アメリカの大衆文化の奥は、存外に深い。しかし、こうした風刺を仕かける側は高学歴、高所得のリベラル、「ウォーク」(意識の高い人々)であり、大衆文化を消費する側の共感を呼ぶことはむずかしい。ここにも、アメリカの分断が潜んでいる。
井上弘貴『アメリカの新右翼』は、こうした社会現象の背景にある思想の潮流を、人物を軸にして丹念に掘り下げている。アメリカは歴史が浅く物質主義的な国だと思われがちだが(これは対米開戦の頃からの日本人の偏見である)、歴史と思想の助けなしにアメリカを理解することはできない。
ポスト・トランプ時代になっても、彼を呼び寄せた思想潮流は続くかもしれない。著者によると、アメリカの新右翼は「従来の右派とは異なりアメリカの思想的な基底である古典的自由主義にも懐疑の目を向け、よりナショナリズムを重視し、よりキリスト教的価値を重んじ、よりテクノロジーを受け入れ、より極右との親和性を強めている」(7ページ)。
21世紀に入って、左派と右派の分極化が顕著になり、両者の対立は、アメリカの歴史認識にも及んだ。戦後のアメリカで、新しい右派「ニューライト」が台頭するのは三度目である。一度目は1950年代の反ニューディール、二度目は60―70年代の反エリートの草の根保守、そして三度目が2010―20年代の親トランプの文化保守である。
こうした分析に続き、J・D・ヴァンス副大統領に近いパトリック・デニーンやイーロン・マスクに対比しうる実業家のピーター・ティール、さらにはフランスの思想家ルノー・カミューらの議論が、各章で丁寧に紹介されていく。例えば、ティールは自らゲイだが多様性の重視には反対で、「わたしたちは火星に行くかわりに、中東を侵略しました」とテクノロジー軽視に批判的である(116―17ページ)。また、カミューはダボス会議に集うようなグローバル・エリートの支配を「ダボクラシー」と軽蔑し、アフリカからヨーロッパへの移民の流れを「アフリカ人によるヨーロッパの植民地化」と喝破する(144、146ページ)。彼によると、現状はかつてのヨーロッパの帝国主義より悪質である。このように、右派はますますテクノロジーと連動し、文化戦争はグローバル化している。
「右であれ左であれ、いまや穏健であることは罪になりつつある」(181ページ)と、著者は嘆息する。移民や性的マイノリティー、貧富の格差など、アメリカが抱えてきた諸問題に、日本も直面することになろう。まさに「アメリカは巨大な他山の石」(同)である。日本政治にも、すでに不寛容が忍び込んでいる。実は、日本のアカデミアにも、早くから不寛容は広がっている。
別々に発表された論文をまとめているためか、図式的な解説と人物論的な論考が混交し、また、「ナトコン」や「テック右派」、「オルトライト」などの術語が氾濫して、読者をやや当惑させるかもしれない。しかし、それはアメリカの思想状況の正確な反映でもあろう。ドナルド・トランプ大統領の言動に右往左往する前に、その背景への思索と理解を深めなければならない。本書はそのための貴重な手引きとなるであろう。(むらた・こうじ=同志社大学教授・国際政治学)
★いのうえ・ひろたか=神戸大学大学院教授・政治理論・公共政策論。著書に『ジョン・デューイとアメリカの責任』『アメリカ保守主義の思想史』、訳書に『市民的不服従』など。一九七三年生。
書籍
| 書籍名 | アメリカの新右翼 |
| ISBN13 | 9784106039324 |
| ISBN10 | 410603932X |
