文芸 3月
松田樹
「線を引くことが一番の問題なんですよね」。沖縄の歴史や伝承を背負って登場した豊永浩平は、『はくしむるち』刊行を機に行われた対談で、こう答えている(『群像』「歴史といま/ここをつなぐ文学」)。例えば、米軍基地を取り囲むフェンスは、内地/外地、日本/米国、戦争経験者/非経験者、兵士/売春婦……、その地に畳み込まれた様々な境界線を物理的に可視化している。『はくしむるち』は――中上健次の『十九歳の地図』よろしく――、その基地の壁に極彩色のスプレーで、グラフィティアートを描く少年の物語だ。彼は境界線でズタズタにされたこの世界に自分なりの線を描き加え、内と外の境界線を乱暴に撹乱しようとする。それは文学という行為自体の隠喩でもある。力作である。
山崎ナオコーラ「脳が三つに割れる」(『文學界』)もまた、線の物語。四〇代の「ノンバイナリー」で「障害児育児をしている」作家の「私」は、子供の育児のために長野県に移住した。浅間山の稜線を眺めるうちに「人類にとって線とはなにか」と考える。空と地を一本の線で分けるアートも、健常や性の境界が区分けされるのも、結局は「ライン引き」の作業である。仕事と育児と介護に追われて「脳が三つに割れる」「私」は、線の暴力性をこう思う。「線があることがつらいのではなく、自分の線は自分で引きたい、それだけだった」。移民問題を描いた前作同様(「氷河の国にようこそ」『すばる』一月号)、長野の山村にミニマルに圧縮された境界線への批評的な眼差しが光る。
村上春樹の〈夏帆シリーズ〉が完結した。最終作「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」(『新潮』)で絵本作家の夏帆は、シロアリの女王に憑依された母と対峙する。連作のため要約は困難だが、ポイントは夏帆がシロアリやアリクイが跋扈する不思議の国に迷い込んでゆく所。その越境は、春樹作品にお馴染みの夢、地下、動物のイメージ、そしてなぜか「文明の果つるところ」とされる武蔵境への転居を通じて示される。「決定的な境界線、目には見えない路上の一線をどこかで踏み越えてしまった」。そこで絵本作家の夏帆は「善き物語」(ベンヤミン)を武器に母と向き合う。文学とは境界線を示すものであるとともに、語ることで自分の身を守るフェンスにもなる。
そんな物語の狡知を描くのが、奥泉光「木蓮記」(『新潮』)。平田篤胤門下の養父に育てられ、妖怪画を得意とした明治の洋画家松枝獏園。彼が晩年に著した自叙伝「木蓮記」。それが校訂編集を経て出版されたというメタフィクション。「以下はまるごと本当のことだ」と始まる自叙伝がしかし信用し難いのは、獏園の語る幕末期の怪異や動乱が明治のこちら側から語られたものだからである。異界の存在を熱心に説く彼はあくまで近代的に冷めており、「書くことに魔力とも呼ぶべき熱が生じる」と怪異や動乱はフェンスの内に自己を安全に隔離した上でエンタメとして物語られる。
山崎作以外に『文學界』の「短篇競作」で印象に残ったのは、鳥山まこと「銭湯」、島口大樹「風景たち」。「銭湯」は『時の家』で芥川賞を受けた鳥山の受賞後第一作。神戸の人間には馴染み深い阪神淡路大震災を慰霊する鉄人二八号の像。そんな記述を織り込みつつ、長田区の銭湯で平衡感覚の乱れとともに主人公の前に現れる「鱗男」はどこか震災の影を思わせる。島口作は失踪した写真家の父の足跡を辿り、実家の解体を記録する見習い写真家の話。実家といってもアパートの一室、「ザ・郊外」の家庭には地縁も血縁も薄い。失われた幼少期の記憶は、解体現場にふわふわと舞う「粉塵」や「花粉」といった皮膚感覚にのみ託される。それはあちらとこちらを区分する写真には映らない美しさだ。鳥山作で震災の記憶が銭湯という場に湧き起こるのも――地下から噴き出す湯水の如く身体から生起する「屁」も同作の印象的なモチーフだ――、境界線の向こうに素肌で接しようとする皮膚感覚の表れに他ならない。
日常の境界線が流動化されるのは、そんな風にふと死者の手触りを思い出した時である。古川真人「おまえにはわからん」(『すばる』)、三角みづ紀「嫌いなひとが死んだ」(同)。古川作は父の危篤を聞いて九州に帰省する中年男性の話。律儀に繰り返される「お父さんは、明義は」という反復法は、生と死、日常と非日常、臨終の最中にある肉親と昭和の一時代を生きたある労働者への眼差しの揺れを物語る。三角作はマンション工事の作業員が高校の同級生で、彼からクラスメイトが亡くなったことを聞いて動揺する様子を描く。前号で取り上げた大前粟生「小さくて大切な場所を守るための日記」も、マンション工事の話だった。それはみながフェンスの内に自己を固く閉ざしてゆく時代に、プライベートゾーンに他者を招き入れ、微弱な揺れを起こそうとする工夫の一つなのかもしれない。この度の芥川賞は『時の家』が選ばれた。文学は建築に似ている。フェンスを築く行為であり、それを解体工事し境界線を引き直すものでもある。(まつだ・いつき=文学研究・批評・愛知淑徳大学創作表現専攻講師)
