滅びゆく惑星で 第11回
増田俊也
ファッションのひとつの極端は軍服である。あるいは刑務所の囚人服である。規律に従った同じデザインのものを、大勢の人間が同じように着せられる。個性を消すために設計された衣装だ。
ところが、である。よく見ると彼らはそれぞれ、襟の曲げ方や袖のめくり方、シャツの出し具合、帽子の傾け方に細かな工夫を凝らして、人と異なるファッションを楽しんでいる。第二次大戦中の写真を眺めても、同じ部隊の兵士たちが、それぞれ微妙に異なる顔つきの制服を着ている。囚人ですらそうだ。裾の折り返し一つ、シャツの前をどこまで開けるか、鏡もろくにない獄舎のなかで、彼らは自分だけの意匠を工夫する。
学生服も同じである。ボタンを布で毎日磨いて光らせる者がいる。詰襟のホックと第一ボタンを外して首元を緩める者がいる。スカートの丈を詰める者、あえて長く伸ばす者、リボンをきちんと結ぶ者、崩す者。校則で禁じられているからこそ、その禁の隙間に個性が滲む。
人間は、限られた状況のなかで工夫していくときにこそ、もっとも研ぎ澄まされたものをつくり出す。制約こそが創造の母であるというのは、ものをつくる人間ならみな身にしみて知っている真実だ。俳句が十七音の中でしか自由になれないように、囲碁が十九路の盤の中でしか無限を語れないように、私たちの創造性は、外壁があってはじめて内側に密度を持つ。
だからあえて周りの物を断つ、という発想が昔から大切にされてきた。断食する僧、山に籠もる作家、ひとつの色しか使わない画家、ひとつの音階しか鳴らさない演奏家。彼らは自分の外側を狭めることで、内側の解像度を上げていた。囚人が獄中でものを書き、遭難者が漂流の日々に思索を深めるのも、同じ理屈である。取り上げられたときにこそ、残されたわずかなものへの執着が異様な密度を帯びる。
ところが、ネット時代に入ってから、こういった渇仰が急激に減ってきた。何もかもがワンクリックで手に入る。着るものも音楽も情報も、無限に選べる。無限に選べるということは、実は何も選んでいないのと同じである。制服の裾を折る手つきに宿っていたあの緊張感は、選択肢の海の中では立ち上がらない。
私たちはいま、囚人以下の想像力しか持たない時代を生きているのかもしれない。何でも手に入るのに、何も研ぎ澄まされていかない。あの獄舎の裾の折り返しほどの創意すら、自分の日常に持てているだろうか。周りをあえて断つ勇気。制約の内側で工夫する知性。それを失ったとき、人間は自由を得たのではなく、ただ形を失っただけなのである。(ますだ・としなり=小説家)
