- ジャンル:翻訳小説
- 著者/編者: スチュアート・タートン
- 評者: 太田靖久
世界の終わりの最後の殺人
スチュアート・タートン著
太田 靖久
ギリシャの小さな島が舞台だ。そこには百名強の従順で礼儀正しい村人と「長老」と呼ばれる指導的立場の三人の科学者がいる。集団がなぜこの島で暮らしているのかというと、九十年前のカタストロフが起因だった。
「巨大な陥没穴がすべての大陸に現れ、各都市を丸ごと吞みこんだ。続いて奇妙な黒い霧が穴から流れだしたのだ。そこには燐光を放つ虫が大量におり、触れるものすべてを切り裂いた」
世界的混乱のなか、「長老」のひとりの「ニエマ」が霧の侵入をふせぐバリアを完成させる。そのため、この島に避難した人たちだけはどうにか生存した。
「霧」をモチーフにしたパニックものといえば、スティーブン・キングの『ミスト』が想起される。空間を限定する機能として「霧」は使い勝手がいいのだろう。本作にはさらにSF的要素も加わっている。住人はインプラントされた装置により、「エービイ」という名のAIに管理されている。
本作はこの「ニエマ」と「エービイ」のやりとりからはじまる。「ほかの方法はないの?」という彼女の問いに対し、「考えつくかぎり、なにもありません」と「エービイ」は断定し、「この計画を成功させるには、死ななければならない人がいます」と続ける。
この時点で何が起こっているのか読者には不明だが、命の取引が必要な切迫した場面だということだけは理解できる。この会話内の状況は〈トロッコ問題〉と同じだ。
〈トロッコ問題〉とは、特定の人物の命を助けるために他者を犠牲にすることは許されるのか、という倫理的課題だ。ブレーキの壊れたトロッコが暴走し、そのまま進むとレール上の五人が死亡する。ただし自分は二本のレールの分岐点にいてレバーを操ることできる。進行方向を変えた先のレール上には一人しかいない。
どちらを選んでも正解とはいいがたい。犠牲者の数等を比較して命の選別をおこなわなければならないため、その判断基準に人生観や価値観が反映される。
「ニエマ」はいわばこの分岐レバーを秘密裏にコントロールできる立場にあり、恣意的に誰かを犠牲にする。その結果自らも命を落とし、新たな悲劇が起こる。彼女はあらかじめ「自分の心臓がとまったら自動的にバリアをオフにする設計」にしていたため、「四十六時間後、霧は海岸に達し」てしまう。そうなれば住民は全滅するかもしれない。しかしそれを止める方法があると「エービイ」は教える。「彼女は殺されたと証明し、犯人を処刑」にすることだ。
有力者が死去した時、その空席に座る新たな人物の言動で未来は変わる。村人の「エモリー」が探偵の役割を務め、真相を探りだす。ここからSFとミステリーがあざやかに融合していく。「彼女は幼い頃からずっと、質問で村人たちを動揺させ、直視したくない不公平を指摘」する存在だった。そういった異端者こそが非常事態において活躍する。
次々と秘密が明らかになり、ショッキングな事実が暴かれる。村人たちは人工的に作られた「類像」であり、人間ではないと知る。仮死カプセル内で眠っている人間たちを守るための一種の道具であって、レプリカントのようなものだ。
その設定はクローン人間をモチーフにしたカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』に似ている部分があるし、フィリップ・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にも通じるものがある。そういった先行作品の残響もまといつつ、物語は進む。
凶器のナイフが発見されたり、新たな殺人が起きる。常に緊迫感があり、それぞれのキャラクターが本音を吐露する瞬間がいくつも現れる。その告白こそが他者とのきずなを確かめる手続きにもなっていて、人間よりもレプリカントの方に温かみがあるように映る。
謎解きが終わっても悲しみは消えない。友愛の情を人間が取り戻す展開がないからだ。その美しい風景が過去の思い出のなかにしか存在しないことを本作は指摘しており、現在を生きる我々の在り方を鋭く問うてもいるのだろう。(三角和代訳)(おおた・やすひさ=小説家)
★スチュアート・タートン=イギリス生まれの作家・ジャーナリスト。書店員、英語教師、雑誌編集者を経る。著書に『イヴリン嬢は七回殺される』(コスタ賞最優秀新人賞)『名探偵と海の悪魔』など。
書籍
書籍名 | 世界の終わりの最後の殺人 |
ISBN13 | 9784163919584 |
ISBN10 | 4163919589 |