2026/09/11号 4面

ニコ・ティンバーゲン

ニコ・ティンバーゲン ハンス・クルーク著 狩野 文浩  本書は、ノーベル賞を受賞した動物行動学者ニコ・ティンバーゲンの生涯を、弟子であり長年の友人・共同研究者でもあったハンス・クルークが描いた伝記である。動物行動学は、動物の行動を自然環境の中で観察し、その仕組み、発達、機能、進化という「四つの問い」から理解しようとする学問だ。ティンバーゲンは、野外観察から検証可能な実験を組み立てる方法と、この四つの問いを示したことで知られる。  動物の行動と心理を研究し、動物行動学との出会いを研究者への入口とした私にとって、本書は学問の成立史として興味深い。しかし読後に強く残るのは、偉大な科学者の肖像以上に、学問が人間によって生み出され、批判され、姿を変えながら次代へ渡されるダイナミズムである。本書は業績だけでなく、同時代の研究者や弟子との関係、戦争、後世からの批判も描き、科学が科学的であると同時に、人間的・文化的な営みであることを示す。  原題は“Niko’s Nature”。クルークによれば、ティンバーゲンには「ハンター」の気質があり、実験によって動物の行動の秘密を「捕まえる」ことが研究の原動力だった。それは、優れた動物ドキュメンタリー制作者としての顔にも通じる。行動を巧みに引き出し、捉えた瞬間に充実を覚える感覚は、私を含む多くの動物行動学者にも共通するだろう。  少年時代から自然に傾倒したティンバーゲンは、学校にはなじめなくても、海辺や野原で鳥や昆虫を眺めることには飽きなかった。とりわけ、オランダ青年自然研究会で仲間と野外を歩いた経験は重要だった。既成の知識を受け取るのではなく、目の前の生き物を長く眺め、わずかな違いから問いを立て、発見を語り合う。その経験が、動物に向ける注意深いまなざしと、仲間とともに発見を分かち合う姿勢を育てた。こうした研究のあり方は、後年、ライデン大学やオックスフォード大学で学生たちとフィールドに出るようになってからも、少しも変わらなかったといってよいだろう。  ティンバーゲンは、野外で生じた素朴な疑問を、検証可能な実験へと変えた。彼にとって、観察と実験は不可分だった。セグロカモメの雛が親鳥の嘴をつつく行動や、イトヨの雄の縄張り行動をめぐる実験が代表的である。模型の形や色を変え、動物が何に反応するのかを確かめる。動物のわずかな反応を捉え、行動が生じるより大きな文脈を理解し、そこから科学的な問題を見いだす。こうした営みをフィールドで結びつけ、動物行動研究の方法として確立したことに、ティンバーゲンの重要な貢献があった。  印象深いのは、ノーベル賞の共同受賞者であるコンラート・ローレンツとの対比である。豊かな直観と大胆な一般化から壮大な理論を生むローレンツに対し、ティンバーゲンは着想を観察と実験で一つずつ確かめた。本書は、「コンラートの発想を科学に仕立て上げ、それを検証する実験を考案したのはニコ」と記す。学問は孤立した天才一人の作品ではなく、異なる個性の協働と衝突から生まれる。  もっとも、二人の関係は美しい友情物語ではない。政治的立場や戦争体験、批判に対する対応、学生たちへの接し方には隔たりがあった。それでも本書は善悪を単純に裁定せず、親密さと対立、尊敬と失望が同居する関係として描く。二人の仕事も、生身の人間が時代の中でつくったものだった。  初期の動物行動学も、そのまま現在に残ったわけではない。クルークによれば、ティンバーゲンの実験の多くは定量的評価や実験者バイアスの統制が不十分で、今日なら査読を通らないだろう。「本能」「鍵刺激」「生得的解発機構」も魅力的な説明だったが、発達、学習、環境との相互作用の研究が進み、行動を単純な生得性や刺激と反応の連鎖だけでは説明できないと分かった。本書がそれを隠さない点は重要である。  こうした批判はティンバーゲンの価値を失わせない。後世の研究者は先人の結論を守るのでなく、疑い、確かめ直すことで仕事を継ぐ。初期理論は修正されても、動物を丁寧に観察し、疑問に答えられる形に組み替え、証拠で確かめる姿勢は残った。その遺産を端的に示すのが、行動の仕組み、発達、進化史、生存・繁殖上の機能を区別する「四つの問い」であり、今なお行動研究の基本である。  本書は、ナチス占領下での抵抗と拘禁、長く苦しめられた鬱、家族や同僚との複雑な関係、さらには晩年に唱えた、自閉症をめぐる現在では受け入れがたい仮説まで記している。偉大な業績を認めることと、その人物の誤りや弱さに目をつぶることは同じではない。人間的な複雑さを消し去れば、科学もまた、誤りのない偉人たちが築いた完成品であるかのように誤解されるだろう。  私が、遠いヨーロッパで生まれた動物行動学に惹かれるきっかけとなったのは、ティンバーゲンやローレンツ、そしてティンバーゲンの弟子デズモンド・モリスの著作だった。私が博士号取得後の多くの年月をヨーロッパで過ごした背景にも、彼らが築いた学問への憧れがあったのかもしれない。モリスからティンバーゲンへ、さらに初期の動物行動学を形づくった研究者たちと、その学問的・歴史的背景へと遡っていくと、自分もこの系譜の末端に連なっていると感じる。同時に、自分の仕事が先人から何を受け継ぎ、後輩たちの仕事にどのような影響を与えていくのかを思うと、感慨とともに心がざわつく。  受け継がれるのは、理論や知識だけではない。AIの時代にも、科学は、科学者という人間の群れが悩み、迷い、誤り、個性を発揮し、批判し、協力し、時に対立しながら切磋琢磨することでつくられる。そのダイナミズムは変わらないだろう。本書は、そうした科学の営みを体現しながら、一つの新しい学問を生み、育て、次代へ手渡した大先輩たちの群像劇であり、同時に、自然を見つめ、当たり前の行動を不思議がり、検証可能な問いへと変え、動物の行動を「捕まえる」喜びを見いだした一人の科学者の物語である。(垂水雄二訳)(かのう・ふみひろ=九州大学高等研究院准教授・比較認知科学)  ★ハンス・クルーク=オランダ生まれの動物学者。英国アバディーン大学名誉教授。オックスフォード大学でニコ・ティンバーゲンに師事し、博士号を取得。ニコと共にタンザニアにセレンゲティ生態研究所を設立。一九七四年にロンドン動物学協会科学賞を、一九九七年に英国哺乳類学会賞を受賞。著書に『ブチハイエナ』『ハンター&ハンティッド』など。一九三七年生。

書籍

書籍名 ニコ・ティンバーゲン
ISBN13 9784314012171
ISBN10 431401217X