2025/06/27号 5面

水の時

水の時 星の時 寮 美千子著 小沼 純一  一九九一年から九七年まで、衛星放送ラジオ局「セント・ギガ St.GIGA」で詩が放送された。二四時間、音楽と自然音がながれ、ひとの声として放送されるのは「日の出・日の入り、干潮・満潮、月齢の告知の他には「Jingle(ジングル)」と「Voice(ヴォイス)」だけ」。一日の番組は「Water line(水の時)」「Star line(星の時)」、二つのみ。番組内「Voice」として発されていたのが、寮美千子の、このたび二冊に集められた詩篇だった。   「毎月、桶谷氏から「次のテーマはこれで」と電話がある。少し雑談をする。ほんのわずかな言葉の欠片が、わたしの想像力をいたく刺激した。」『星の時』の「あとがき」より引いた。生みだされた六百余の詩篇。各詩篇は一ページから数ページと短い。  媒体としてあった稀有なラジオ局についてふれることはしないが、YouTubeなど、インターネットを介して何時間も音楽や自然音をながせるようになる以前、二〇世紀末にこうしたラジオ局があったことは、記憶にとどめておくべきか。そうしたひとの声が滅多にながれない放送のなか、詩が読まれていた、ということも。  『水の時』『星の時』を「寮美千子」という作家・詩人の作品としてのみみてはこぼれおちてしまうものがある。作家=詩人の自発性だけで多くの詩が生まれたのではない。放送局があり、放送局の方向性があり、担当のひととのやりとりがあった。ちょっとしたきっかけから詩が生まれる。先に電話でのやりとりを引いたのは、こうした声のやりとりから、いちど文字として記された詩が、またべつの声によって朗読され、放送される声のめぐりをおもったから。ことばはことばを誘発し、べつの道へ導いてゆく。二冊にあるのは突出した詩行とみえないかもしれない。個の詩人の声が稀薄というかもしれない。だが、そうしたことが目指されているのではもとよりない。そうではなく、複数の声が交差し、不特定多数へ発散され、ちょっとの時間かもしれないけれど、何かを拾いあげ、いまいるところからちょっとべつの時空にいってかえってくる、きっかけになるかもしれない、そうした声の記録なのだ。  詩とは何か、詩とはどういうものか、を考える。あるいは、考えない。それとなくじぶんの抱いている概念やイメージがある。そうした概念やイメージはそのままで、詩は朗読される。電波にのったアノニマスな声。一人称の、「わたし」はあまりでてこない。でてきても、「わたし」をつきぬけ、拡散し、「わたしたち」へとひらいてゆく。 六億年前に 消えていった音楽を 聴きながら 六億年後に 聴こえてくるはずの音楽を わたしの掌のなかで 夢みている(「アンモナイトの夢」『水の時』所収) 遠い昔 わたしは 海から生まれた 遥かな未来 わたしは どこへ行くのだろう(「未来の記憶」『星の時』所収)  詩篇のなかやタイトルには九〇年代に流通したことば、本や映画のタイトル、場所の名がところどころあり、当時を知るひとにはにやりとするところもあろう。生身の詩人が生きていた場所・時代の刻印には、発される放送メディアと親近性もあったろうし、同時に、詩篇が生まれる機会(と時代)の多様さを示してもいる。  上に記してきたようなことを踏まえつつ、おもうのはこんなことだ。いま、本を手にとり、一篇一篇、ランダムに読み、ときには途中でやめてべつのページに移ったり、行をとばしたり、読むテンポを自由に変えたりできるのに対して、もともとは耳で「きく」だけ、ラジオの電源はおとすことができても、読みの速度を変えることはできない。そうした声とつきあうことの不自由さとともに、作品の享受があった。ききたいときに声が訪れてくれるわけではない。あるときが訪れると、声もやってくる。そうした偶然が本ではなくなってしまう。逆に、いつでも気儘に本はひらける。声にされることが前提で書かれた詩篇と、ほぼ文字と視線とともにある詩篇とは異なる。そうした身体的なありようを意識すると、おなじ詩集がべつの表情をみせてくる。  声にされることを前提にした詩は、また、こちらが声をだす、声をだして読むことをも促してこよう。難解な語や言いまわしはない。あったとしても文脈のなかを通りすぎて、時間のともにある感触が、声の終わりとともにひとつのイメージとして結ばれる。  二冊の詩集を生かす・活かす・異化すのは、朗読の声がきこえなくなり、じぶんが文字をとおして、声をひびかせるようになったいま、だ。(こぬま・じゅんいち=早稲田大学教授・音楽文化論)  ★りょう・みちこ=作家。一九九〇年代、衛星放送ラジオ「セント・ギガ」に六〇〇編以上の詩を提供。著書に『楽園の鳥 カルカッタ幻想曲』(泉鏡花文学賞)『名前で呼ばれたこともなかったから』『あふれでたのはやさしさだった』など。一九五五年生。

書籍

書籍名 水の時
ISBN13 9784867610299
ISBN10 4867610291