2025/12/12号 5面

「ルノワールからもらった手紙」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)418(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 418 ルノワールからもらった手紙  JD 今日の観客たちは、映画に関して本当に知識がなくなっています。映画を少しでも、またよりよく理解するためには、最低限の知識が必要です。加えて、歴史のちょっとした逸話を知るのは、そのこと自体が楽しい。それはそれで否定すべきでもありません。言うなれば、多くの人々は過去の映画を現在のものとしてではなくて、過去のものとして見ているのです。例えば、エイゼンシュテインの映画を当時のソヴィエト社会を反映したものとして見る見方があります。もしくは、グリフィスやキャプラなどの映画を、当時のアメリカを反映していると考えることもできる。決して間違った見方ではありません。エイゼンシュテインの存命だった時代でさえ、地理的に離れていたフランスでは、多くのロシア映画を、ソヴィエトのイデオロギーの反映として考える映画専門家はたくさんいました。ジョルジュ・サドゥールやその仲間たちにとって大事だったのは、映画を通じて何が語られているか、彼らの考えに沿う形で解釈し整理することでした。彼らは、映画作品そのものが何を語るかではなく、映画の周辺に興味があったのです。私たち『カイエ』は、そうした見方を心の底から好きになれませんでした。そして「作家主義」の道を選ぶことになります。しかし、彼らの成した仕事を完全に拒否すべきでもありません。なぜなら、彼らの仕事や映画紹介を通じて、全く知らない国の映画を発見する機会となったからです。戦後のフランスにおいては、何でもかんでも好きな映画を見られる環境にはありませんでした。  現在のようにDVDを通じて、望んだ映画を、自分だけのために上映するなど、到底考えが及ばないことでした。そんなことが考えられるようになったのは、一九八〇年代にビデオが普及して以降のことです。それまでの間、八〇年近くにわたり、映画は〈出来事〉だったのです。演劇の上演のようにして、上映の機会を逃せば二度と見られない可能性を常にはらんでいました。さらには、初期のビデオは本当に質が悪く、映像のフォーマットが誤っていることなどの問題も度々あり、見るに値しないものが多かった。それ故、映画が時間的・物理的制約から実際に解放されたのは、誕生から一世紀以上後のことであったと言えます。  私たちが子供の頃のフランスにおいては、ほとんどフランス映画しか見ることができなかった。そして占領下の時代には、ドイツ映画の上映もありました。多くの場合、一般の観客が見ることができたのは――当時は世界中でスタジオシステムが黄金期を迎えていたこともあり――いわゆる「良質の映画」といわれるものであり、作家の映画ではありませんでした。ルノワールの映画は、興行的にも政治的にも難しい状況にあり、見られる機会はほとんどありませんでした。彼は、画家のルノワールの息子として知られていたので、色々と話題にはなっていましたが、その映画は多くの人に嫌われていました。私は映画を見る前に、たまたま手に取った雑誌の記事を通じて、彼の映画に興味を持ち、ずっと見たいと望むことになりました。占領下の時代の話です。私は彼に「アシスタントにして欲しい」という手紙を書きさえもしました。「もっと大きくなったら会いに来るように」と返事をくれました(笑)。  HK 映画史のちょっとした逸話ですね。  JD ええ。ルノワールという人間の一面が垣間見える逸話です。彼は、誰に対しても誠実な人であり、人々を惹きつける魅力を持っていました。彼の人となりは、その映画に本当によく反映されている。ルノワールという人間抜きにして、ルノワールの映画は存在し得ません。  話を戻すと、フランスで当時見られていた映画は、本当に限られたものだけだったのです。戦後になって、少しずつパリでアメリカ映画を見ることができるようになります。しかし、それでもアメリカ映画の全てが見られるわけではありませんでした。解放後になっても、フランスでは政治的な緊迫感があったので、「この映画は特定のイデオロギーの反映である」といった言いがかりによって、上映が禁止される映画がたくさんあったのです。 〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)