2026/02/27号 3面

バタイユとアナーキズム

バタイユとアナーキズム 大池 惣太郎  「アナーキーとは何か。それは夜の野営地で詩を読み上げるようなことだ」と著者はいう。それをしたのは、若き日のバクーニン。一八三三年、砲兵少尉としてベラルーシ国境近くに野営していた将来のアナキストは、満天の星の静けさのなか、一人眠らずにヴェネヴィーチノフの詩を朗詠したそうだ。すると、神聖さとも悲しみともつかないものが彼を包み、「世界によせる燃えるような強い愛」がその身を満たす。  この若き革命家の経験にこそ、狭義の「無政府主義」に先立つアナキズムの本質がある、と唱えるのが、本書独自の切り口だ。  「アナーキーとは、まずなにより、支配的な原理を覆す情念のこと」だと著者は繰り返す。政治理念や哲学概念に昇華される前の始原の〈アナキズム〉、それは「政治的解放よりも根源的な自由への渇望」であり、「支配的になった原理を次々に否定していく情念」だと。つまり問題となる「アナキズム」は、主義や立場のずっと手前で形なく揺れ動く、人の心そのものなのだ。  それゆえ、アナキズムの思想史のようなものを期待して本書を開くと肩透かしにあう。取り上げられるのは、想像の金閣寺を焼く三島や、不安のキルケゴール、ディオニュソス的陶酔のニーチェ。そればかりか、ボードレールの「白鳥」、キュニコス派の演劇、ベルナルドゥスの格言にまで「アナーキーな批判意識の静かな表明」が読み解かれるのだから、すっかり意表をつかれる。予測を裏切る「転覆の情動」に、著者自身がつき動かされるかのようだ。  そんな「転覆の情動」を特別に体現したのは、著者にとって、やはりジョルジュ・バタイユだったことになる。バタイユがとことん好きなのだな、と感服してしまう。各章で取り上げられる思想家、芸術家、運動家は千姿万態だが、彼らの人と思想に潜む〈アナキズム〉を倍音に響かせるため呼び出されるのは、きまってバタイユだ。  といっても、禁止を踏み越える侵犯の思想家としてではない。むしろ、その失敗の多い人生によって、己の立場を定め切れず言い淀むことにおいて、バタイユはアナーキーだと著者は考えているようだ。そこが面白い。キーワードは「曖昧さ」、「彷徨い」、「揺曳」、「定めなさ」。著者がバタイユとアナキズムを結ぶラインは、力強い近代的な否定の原理ではなく、いわばジャンニ・ヴァッティモのいう「弱い思考」に似た何かなのだ。  特に面白かったのはカフカを論じた章。チェコの熱狂的アナキスト、ミハル・マシュレの回想をもとに、一人の若者としてのカフカの姿が拾われる。カフカが運動家として積極的に活動した事実はない。それでも、マシュレは群衆のなかで特別繊細な空気をまとったこの若い作家に気がつき、そっと微笑を交わす。カフカもまた、ときおり女性アナキストの自由恋愛をめぐる講演などに足を運んでは、目立たぬようにソーセージ六十本分もの献金をしていったという。カフカは工場で事故にあった労災者に保険金給与を払う仕事をしていたので、その経験からアナキズムに親近感を持っていただろう、と著者はいう。  そこで重要なのは、やはり政治的意味でのアナキズムではない。急速な近代化と政治運動の喧騒のさなか、街でときおりすれ違う二人の孤独な若者が、どんなつながりもないまま、互いを目醒めた意識として見分ける。そこで通じあった形のないものが、著者のいう〈アナキズム〉なのだ。  カフカは世の表に浮かび上がらず、仲間に自作の奇怪な物語を朗読したり、公園で子どもと戯れたりすることに喜びを見出した。そんなカフカの小さな生の懐中を、恐るべき「アナーキズムの根源」と見なすところに、本書自体のアナーキーさがある。  本書を結ぶのは、これまた意想外にも倉本侑未子の詩「潜水」。「蔦の葉が枯れたプールの底」で、「ひんやりとした半透明の膜」が「地上では漏らせない声を/そっと潜らせてくれた」と詩人は歌う。政治の表舞台に立てば「アナキズム」はたちまち一つの主義、原理、本質として立ち上がる。支配の原理から遠い言葉は、そもそも明るい大気を朗々と震わせることができないものなのだ。そんな「水の中の地下室」から発された定めない言葉への共感が、本書を貫いている。  著者の言葉は理知的だが、根底で探られるのはやはり「情念」であり、情念の内向化の果てに開かれる明かし得ない共同の地平なのだ。その意味で、著者のバタイユ=アナキズム論は、最終的には政治的アナキズムの原理そのものを退け、ブランショ的な、沈黙の文学的共同体へと合流するものだろう。  ただ、バタイユはさまざまな読みを許す多面的な思想家だ。本書が描くラインとはまた異なるアナキズムの方向性を、そこから引き出すこともできるように思われる。実際、近年同じ法政大学出版局から刊行された論集『はじまりのバタイユ 贈与・共同体・アナキズム』で、栗原康氏や山田広昭氏らが、バタイユの「消費」経済、すなわち見返りのない贈与行為に潜むアナーキーさを論じていたのも記憶に新しい。  純粋な贈与は、社会的な有効性や機能に回収されず、一時的にせよ秩序を打ち消す力をもつ。それは人間世界に収まりきらない無限の潜在力を示唆し、その傍にある人間の生を自由として照らし出す。たとえば本書三章で、アンダルシア農民やカタロニア労働者たちの形成したアナキズム共同体が、なぜ政治運動的にならず、陽気な生活実践として存続したのかが問われているが、それは「非理性的な情念」や「不可能なものへの欲求」だけで説明できないように思う。そこには、純粋贈与を知るスペイン的な生のリアリティがあったのではないか。  その点で、バタイユのアナキズムを、ピエール・クラストルや日本中世の「無縁」の原理などと並べて、もっと政治的に読む方法もありそうだ。本書のバタイユ像は、もちろんその可能性を排除するものではない。バタイユ思想のアナーキーさは、個の実存の定めなさと、支配を知らぬ世界の豊穣さの交わるところで脈打っているのだから。(おおいけ・そうたろう=明治学院大学准教授・フランス現代思想)  ★さかい・たけし=法政大学名誉教授・フランス現代思想。著書に『モーツァルトの至高性』など。一九五四年生。

書籍

書籍名 バタイユとアナーキズム
ISBN13 9784588130458
ISBN10 4588130455