重信房子氏に聞く(聞き手=丸川哲史)
<武装闘争から合法的活動へ>
『獄に暮らせば』(作品社)刊行を機に
一九七一年に日本を出国し、パレスチナ解放闘争に参加し、革命運動をつづけてきた重信房子氏は、二〇〇〇年一一月に逮捕、懲役二〇年の判決を受けた。その獄中で綴った日記を中心にしてまとめた『獄に暮らせば』(作品社)を五月に上梓した。刊行を機に、重信氏にお話をうかがった。聞き手は、明治大学教授・丸川哲史氏にお願いした。(編集部)
丸川 重信さんは、ご著書である『はたちの時代』(太田出版)の中で、「明治大学で自分の人生が決まった」とおっしゃっています。私自身も明治大学出身で、学生時代に暮らした学生会館についても重信さんは触れられており、何かしらの因縁を感じておりました。これまで重信さんは、ベイルート時代のことなども含めて、いろいろと書かれてきているんですけれど、今回の『獄に暮らせば』は、主に獄中での出来事を中心にまとめられた本となります。最初に、どういう経緯でこの本を出されるに至ったのか、お聞かせいただけますか。
重信 私の公判が始まった二〇〇一年から出所する二〇二二年五月過ぎまで、昔の友人たちが私を支援するために、「オリーブの樹」という交流誌を発行してくれました。最初は月刊で、最後は年に四回というペースでしたが、二〇年以上つづきました。そこに裁判のことや中東情勢について、また獄中の生活や自作の短歌なども含めて、すべてを思いのままに綴っていったんですね。それを、そのまま縮刷して本にするというお話もあったんですけれど、量がものすごかった。それに対して、作品社さんから、獄中生活を中心にして本にまとめたらどうかという提案をいただきました。獄中で経験した理不尽なこと、それから私自身が癌を患って、手術で九ヵ所の癌を摘出したんですね。その闘病記や、また時々に詠んだ歌と、三点を中心にして今回の本は作られています。
丸川 冒頭、逮捕のシーンが出てきますよね。その時に、「本名に戻って自分らしく楽しく闘う」と記されている。それまでは「マリアン」という名前で活動されていた。それが今後は、重信房子という本名を堂々と名乗ることができる、と。一方で、日本社会(および西側世界)では、マスメディアを通した政府の見解として「テロリスト」として扱われることになる。アラブ世界では「闘士」という立場からの一大転換が起きたわけです。そういう状況で、獄中人生が始まりました。ただ本を読んでいると、はじめから「好奇心」や「ワクワクする」という言葉であったり、「学習」といったキーワードが出てきたりするんですよね。警察の取り調べや初めての裁判に臨まれる時にも、「興味津々」とあります。従来の獄中記にはないテイストか、と思いました。
重信 日本を出てからは、「マリアン」という名前でずっと活動をしてきました。その中で、日本に密かに戻ってきたりもしていたんですけれど、本名でないと、または何かのアイデンティティがないと、日本社会では暮らしにくいところがありますよね。何をするにしても動きにくく、こそこそと生きていかなければならない。そこから解放されたという思いがあったのだろうと思います。もうひとつは、向こうにいると、目の前で限りなく人が死んでいくような世界ですから、逮捕されたり獄中にいたりすることって私にとっては、大したことではないんですね。だから、逮捕されたのなら今度は本名に戻って、今までやれなかったこと、失敗したこと、学生時代にできなかったことまでも含めて、もう一回取り返す契機にできるんじゃないか。そう思った時に、すごくワクワクしたということです。
丸川 なるほど、もう少しだけ遡りまして、大阪での逮捕から東京への護送がありましたが、そのあたりの印象はいかがですか。
重信 本にも記しましたが、逮捕されて新幹線で東京に連行される時、窓の外に秋の田舎の風景が見えました。ちょうど稲を刈っていて、それが稲架にかけられた風景がとても綺麗だった。青い空と黄色の景色がずっと流れていく。日本っていいなあとつくづく思いました。元々私は、日本が好きだったんですよ。嫌いだと思ったことはない。アラブにいる時、一緒に闘ってる人たちの中には、現状批判という意味でしょうが、日本嫌いの人もいましたが、私は日本が好きで運動をやっているところがあった。だから日本に帰って本名で活動できるなんて素晴らしい、これからは本名でやりたいことをやっていこうと、そんな感じでした。
ただ、同時に強く思ったのは、みんなに申し訳ないということです。私の逮捕によって多くの人たちに迷惑がかかってしまう。中東の人もそうだし、日本で助けてくれた人もそうです。それはそれで仕方がない、今は捕まったという現実から再出発しよう。それならば本名で、とにかく楽しく闘う。革命運動や学生運動だって楽しいものだった。楽しいからつづけられたんだと思います。苦しいながらも、そこに生きがいがあった。そういう思いと自負があったので、獄中にあっても「楽しく闘う」ことが基本にあったんだと思います。
丸川 「闘いは幸せ」という言葉もあり、今の日本社会ではあまりないものなので驚いたんですが、その意味が、今お話をうかがっていてよくわかりました。
重信 日本社会の感覚と随分離れてしまったのかもしれません。それは私の家族も同じですね。検事から聞いた話ですが、逮捕後、家族に尋問に行くと、こんなことを言っていたそうです。「もう殺される心配がないと思うと、逮捕されてホッとします」。この平和な日本で、そういうことを考えている家族もいるのかと、検事も驚いていました。日本の表層で生きていると、特に差し迫った死の危険はありませんよね。けれども今言ったように、向こうでは死が日常だった。そういうことから来る感覚の落差はあると思います。
丸川 本書はもちろん、獄中のディテールがいろいろ書かれていて非常に面白いんですが、それに加えて、重信さんがかつてあったことを思い出していかれます。闘争のことだったり、ご家族のことだったり。何を最もよく思い出されましたか。
重信 たとえば、私が日本を出る際、父が贈ってくれた言葉があります。「随所に主となれば立つ処皆真なり」。臨済宗の祖である臨済義玄の言葉です。父はこの言葉で、何を伝えたかったのか。「主となる」とは、決してリーダーシップを取るという意味ではない。主体性を持って生きる。誰かに流されるのではなく、正しいと思えばそれに向かって進んでいく。駄目だったらもう一回やり直せばいい。失敗して間違ったら、自分で他の道を探して生きていく。それは父なりの総括の言葉だったと思います。私なりに解釈すると、「どこにいても自分らしく生きる」ということです。やりたいことを控えたりせずに、自分の思いに基づいて生きていけば、どこにいてもそれが真実である。そういう生き方って素敵だなと、私も思ったんですね。だから、いつでも自分の思い通りに生きてきました。それが関係しているのかどうか、時々の記憶も鮮明なのかもしれません。自分が心を込めて取り組んできたことは、ひとつひとつの色まで含めて映像で蘇ってくるんです。
丸川 獄中にいたからこそ書けた。あるいは、書くことにより獄中生活の在り様が定まってくる、ということはありましたか。
重信 そうですね。外にいたら、いつも走り回っていて、書けなかったかもしれません。ただ、書くこと自体、大学時代までは大好きだったんですよ。大学一年の時、「蛇の声」という小説を書いたこともあります。「口縄」はデモ隊のうねりを表す言葉です。文学研究部か新聞部の顧問だった阿部知二先生に、「書き直したら良いものになる」と褒められたんですが、学生運動に入って、小説を書くのはやめてしまった。活動をしていると、様々な国の人たちと折衝したり、どうしても集中して文章を書くことができませんでした。その分、獄中ではひとりになって、書きたいという気持ちになりました。最初の一〇年近くは裁判があったので、そちらに全精力を傾けなければならなかったけれど、時間が経つにしたがって、自分の思いを何とか吐き出したいという思いになっていきました。昔は詩も書いていて、『現代詩手帖』とか詩の雑誌もよく読んでいました。でも、詩って長さがあって、書くにはものすごいエネルギーを使うんですよね。短歌ならば、あのリズムが自分には合っているのかもしれないと思って、自己流ではじめたんです。公判の中での具体的なやりとりは長い文章で書き、自分の思いは、はーっと内から吐きだすような感じで短歌にして詠み、全体として補っていく。そうやってバランス取りながら生きていたところがあります。
丸川 獄中記と呼ばれる領域には、以前から関心があったんです。大杉栄をはじめ、多くの男性たちが獄中での記録を残している。そこには一定のパターンがあるんですね。たとえば大杉栄は、外側に向けて表現するために獄中にいるようなものだから、自己顕示が強く出る。その他、宗教的な自己超克がテーマとなり、そこから転向に繫がるパターンも出る。さらに同時代でいえば、大道寺将司さんは獄中記で俳句をかなり遺されている。そこには「自分に向き合う」熱量の激しさを感じます。徹底的に過去の自分と現在の自分に向き合う求道者のイメージですね。ただ、周囲の人物について詠んだ俳句は少ない。もちろん、短歌と俳句という形式上の差異も大きいかとは思います。いずれにせよ、大道寺さんとの対比で、重信さんの場合、まず獄内外の「仲間」のことが記されていて、また看守さんを題材にした歌とかも。一首引用します。「看守らの叱る声する昼さがり子を叱るごとやわらかき声」。新鮮さを覚えました。また別の歌の中には、こうあります。「刑務作業終了寸暇を刺激してシモーヌ・ヴェイユの固き論を読む」。刑務作業とヴェイユ、興味深いです。ここはまた後でご質問いたします。
重信 今丸川さんが指摘くださったことに関しては、あまり自覚的ではないんですけれど、ある人に言われたことがあります。「あなたは看守を看守として見ないで、人格として見ている」。つまり看守というのは職業ですよね。人間ではなくて役職です。けれども私は、あくまでも人として見ている。その言葉で思い出したことがあります。赤軍派の書記局長をやっていた人から、「君の考えではすべてが人間みな兄弟で、階級性がない」と言われた。私としては、みんなひとりの人間であって、その人そのものを否定するという考えにはならないんですね。たとえば制度が間違っていて、誤った制度の中で過ちを犯す人はいる。それならば制度そのものを変えていけばいい。
だから、あとがきにも書きましたが、刑務所にしても、私の感覚で言うと、まさに村社会であって、その弊害が多々あるわけです。東京拘置所は東京村、栃木刑務所は栃木村、八王子医療刑務所は八王子村。トップには顔の見えない絶対権力者の法務省があり、その下に村長さんとして所長がいて、一番下には私たち受刑者・拘留者が置かれている。看守は私たちを抑圧するが、間に立って、下からは文句を言われたり、反乱されたり、上からは絶対服従を強いられる。それに対する看守の苦情を日々聞きながら、大変だなと思っていました。「上から違う指示がふたつ来た」と言うので「どうするんですか?」と訊いたことがあります。答えは「より上の指示に従う」だった。自分の判断や考えを入れてはいけない。そういう社会です。私のいたところは女区で、看守も女性がほとんどです。それぞれいろいろな悩みを抱えているんですよね。彼女たちには何かあれば私に、「あなたが言って。」「あなたが上に言う方が効くから」と話す人もいました。非常に疎外された村社会の中にいて、私たちは「所内生活の心得」を遵守しなければならない。人権侵害そのものの規則です。一方看守にもマニュアルがあって、細かい制度には逆らえない。看守を詠んだ歌を今引用してくださったけれど、看守もひとりの人間であり、そういう人たちと付き合って、間違っていたらお互いに直し合う。そんな感じでいつもやってきました。拘置所の中だけに限ったことではなく、自分の人生がそうだったということです。
丸川 先ほど、お父上のことを話されました。『はたちの時代』を読んでいても、やはりお父さんの影響が強かったと書かれています。重信さんがいろんな活動をなさる時の「信念の土台」ですね。お父さんの口癖のひとつに「良い日本人になれ」というのがありますよね。時代のズレというものが強く介在しますが、戦前に生きた人と、現在の私たちを結びつけるような何かが、お父さんの言葉にはあった。その点でも読み物としての魅力がある。「活動家の中には日本嫌いの人もいる」という、重信さんご自身の発言とも響き合う言葉だと思います。お父さんの生き方なども絡めてお話しいただけますか。
重信 若い頃はよく知らなかったんですが、父は戦前、民族運動に参加していたんですね。鹿児島の人で、血盟団事件に加わった四元義隆や池袋正釟郎と三人で仲良しだった。父の父(重信一華)が士族出身で、幕末の頃の師範学校を出て、漢学者になった人だった。父はその末っ子で、東京に出てきた後は、安岡正篤の私塾・金鶏学院にも通っていたそうです。本当に物事を何でも知っている人でした。私たち子どもには、一度も怒ったことがない。「房子、それはね…」と、諄々と諭すような人なんです。臨済義玄の言葉でもそうですが、どう生きるかを教えてくれる人だったと思います。家は貧しかったけれど、実に豊かな、いい宝物を両親はくれたと、姉とはよく話をします。具体的に何をしろとは言わなかったし、職業については「自分が考えて選ぶことだから」と言うだけで、「社会の役に立つこと」とか「正義のために」とか、抽象的な言葉で話をする人でした。
丸川 いわゆる日本の「昔のお父さん」という一般的なイメージとも違うようですね。
重信 振り返ってみて、自分の父は世の中の人とは随分違うなと思ったことがあります。一〇・八の羽田闘争の時、警察にやられて、病院で治療を受けたんですね。帰ってその話を父にすると、「自分も若い頃、世の中を変えようと思って、活動をしていたことがあった」と、初めて詳しく昔の話をしてくれた。五・一五事件にも繫がっていく話なんですが、父の仲間たちは深夜に変電所を攻撃して、電気を止めようとした。それで街を混乱に陥れ、隙に乗じてクーデター賛同者が決起する。ただ、その時に、スイッチをひとつ落とせば停電にできるのに、爆弾を投げたらしいんです。だけど一向に電気が落ちない。言ってみれば、赤軍派と同じようなことをやっていた。計画は結局失敗に終わったらしいです。
丸川 吉田喜重監督の『戒厳令』にも類似した場面が出てきますね。
重信 喜重さんもベイルートに来たことあるんですよ。「あなたのお父さんをこちらに呼んで、ふたりで対話をする。お父さんは「日本に帰れ」と言うのに対して、「私は帰らない」という、そういう映画作りたい」と言っていました。それは無理ですと、即座に断りました。うちの父は私に対して「帰れ」なんていう人ではないから(笑)。
丸川 お父さん自身が、何か強い「信念の土台」のようなものを内に持っておられた、ということですね。
重信 そうだと思います。
丸川 だから重信さんは、決して突然変異ではく、お父さんから精神的な継承をしている。これは日本思想史的な題材にもなり得るものではないか、とも思います。
さて本書に戻りますと、先ほどシモーヌ・ヴェイユを詠んだ短歌に触れましたが、彼女は『工場日記』という形で、工場に勤務して苦労した話を書いています。その話に非常に近いものを、今回『獄に暮らせば』を読んで感じたんですね。もちろん工場と拘置所では状況が違うけれど、同じように厳しい作業がある。その描写に感心したんです。獄中記で、そういうことを書く人はあまり見当たらないと思います。具体的にどういう刑務作業があったのか、またその作業に関わることで、様々な「異議申し立て」運動に携わることになり、興味深い。
ところで、戦後文学で言えば、大西巨人氏が『神聖喜劇』では、軍隊内の状況、そして活動を特異な視点で描いていますよね。軍隊は権力側である官僚が作った細かいルールに縛られた、非人間的な場所であった。けれども、そうしたルールに則りながら、それをむしろ盾にして闘争するのが主人公・東堂太郎でした。『獄に暮らせば』には、それに近いようなことが記されている。獄中での闘いは、克明に相手方のルールを知らなければできないことです。そこでは、一緒に働いている人との交流があり、またルールを押し付けてくる側との対抗、時に暗黙の「連携」なども事細かに描かれています。いずれにせよ、重信さん自身が、刑務所内部の生活や作業にかかわって運動していた、ということです。つまり、ずっと闘いつづけている。本書で記されている「しつこくやります」という言葉がいいですよね。
重信 私は常に「紙」を通して闘ってきました。紙は官僚主義だと思っていて、ルールがすべて決められています。口でやりあっても駄目なんです。「そんなことは言っていない」と後で言われたら、どうにもならない。結局は権力の方が強いわけですから。みんなそれで泣き寝入りしている。私はとにかく紙に書いて提出することを、周りの人にも勧めました。紙に書けば、官僚システムがあるから、破いて捨てることはできない。紙の上部にはハンコを押すところがいくつもあって、それがひとつずつ押印されて、上まで手渡されていく。そこまでは絶対に廃棄されないんですね。だから「要求書を書くように」と常に言っていました。そのことを聞いて、みんなそうするようになりましたね。
丸川 日本社会の住民運動でも、パブリックコメントの形などで住民自身が参加する運動がありますが、そこには「学習」が不可欠です。役所の人間に読ませる文体の練習と工夫が必要だ、ということ。これは運動の基本ですよね。
重信 イラク戦争の時、東京拘置所が新しい建物に変わった際、一日で部屋替わりをしたことがありました。新しい場所に大移動すると、お風呂が、ドアを含めてすべて透明だったんです。本に詳しく書いてありますが、上から下まで透明で、中が丸見えだった。それに対して、何枚もの意見書をすぐに書きました。そうしたら一時間もせずに、ガムテープで布が貼られました。数日後には、すりガラスに変えられた。ただ、その時も、決して謝罪はない。「ごめんなさい」とは絶対に言いません。権力は無謬である。そこを堅持しながら抑圧してくるのが、日本の監獄の構造です。
丸川 もう少しシモーヌ・ヴェイユに関連して話をつづけたいと思います。彼女の『工場日記』の場合、自分で働いてみて考えたことを書き記す、という形を取った。彼女の場合、精神的・肉体的に限界に達して離れますが、その前後にも特有の持続性が読み取れる。重信さんの書いたものにも、やはり同様のところがある。誰でも、場所を変えると、活動の形態は変わるわけですが、持続する精神の運動としてある種の一貫性がある。このことと関連するのは、日本の左翼と文学の歴史を振り返ると、基本的には「転向」が介在する歴史でもあったという事実です。その最たる磁場が獄中でした。日本ではそのイメージが非常に強い。戦後の文学を見ても、多くは転向者によって書かれてきたと言っていい。太宰治や埴谷雄高も含めて、一九三〇年代以降、転向者が文学を作ってきた。重信さんが書いているもの、これを文学と呼ぶならば、その系譜に対抗するものとも読めます。
たとえばインド人作家アルダティ・ロイははじめ小説を書いていたわけですが、その後でルポルタージュの手法を取っていく。重信さんは学生の時には小説を書いていこうとしていた、とも聞きました。しかし学生時代、結果として、社会的なものに強く向かっていく。重信さんの活動の志向性、そして言葉の残し方が、ロイの軌跡とも似ているように見えます。いずれにせよ、獄中においても、看守も含めた人間関係を、さらに獄窓の外の自然の描写を言葉に書き記し、獄の外の世界に伝えようとする、そのようなベーシックな情熱がある。もちろん、書けないこともたくさんあったか、とも思いますが。
重信 それはありました。書けなかったことは相当ありますが、とにかく私にできることは書いて、外にいる友人たちに返していこうという思いで記録しているところはあります。
丸川 重信さんが書かれたその記録は、何かのマニュアルみたいに直接役に立つわけではないけれど、結果として役に立つものになる。あるいは最低限、読者を「元気」にさせる、そういう志向性を持っている。お書きになったものを文学と呼べるかどうかはわかりませんが、従来のものではない、新しい獄中記の在り方と志向性を、私は強く受け取ったんですね。つまり獄中にいても孤立してはいなかったし、獄の内外を超えて複数形としてそこに居た、ということですね。
重信 私自身は、常にひとりではなかったと思っています。友だちがいたり、仲間がいたりした。だから、社会を変えるという時にも、人とともに活動することが革命に繫がっているという感じです。人と人とが関わり合っていく。それが基本だと思います。
丸川 人と人の関わりという点では、重信さんが刑務所から出られた二〇二二年五月二八日の日記が印象的です。昭島の矯正医療センターで知り合った方が、その日に開かれた重信さんの歓迎集会の会場に訪ねてきますよね。彼女が、会の最後にスピーチをする。「重信さんからもうクスリをやめなさいと言われてやめました。もうクスリやってないよ! 重信さん、おめでとう! 生きて出て来れてよかった!」。感動的な場面です。重信さんが分け隔てなく受刑者たちと付き合い、仲間を作ってこられたことの結果が示されている。
もう一ヵ所、丸岡修さんが亡くなった時の叙述も心に残ります。獄中の窓から空を見上げながら、同志であった丸岡さんに思いを馳せている、まさにその時に、訃報を電報で受け取る。その時にまた次のように詠まれています。「永別の君に手向ける花も無く心を込めて歌うインターナショナル」。そうした仲間たちとの関係も、本書の読みどころのひとつだと思います。
さて、出所後の話に進めます。獄から出られた瞬間ですね、そこでどのような感触を持たれたのでしょうか。
重信 「出所前教育」という講習でお会いした尊敬できる講師の方が、私に言った言葉あります。「外に出たら多分嫌な思いをすることがあるかもしれない。だけど、あなたの今やっていることをつづけて、命を大切にするとはどういうことなのか、これからも若い人に是非伝えていってください」。そう花向けの言葉みたいに話してくださったんです。もちろん、私に対する批判はいろいろあって当然だと思っていました。だけど獄を出てきた瞬間にパッと目に入ったのが、ハートマークだったんですね。「I Love♡Fusako」と大きく書いてある横断幕が見えて、ものすごく励まされました。娘のメイの友だちを中心にして、出迎えてくれたのは海外の方も多かったんですが、わざわざこの日のために海外から来てくれた。その後ろでは、右翼がスピーカーで私のことを糾弾していたらしいんですが、何を言っているかまったくわからなくて、歓迎の一団だと思ったぐらいです(笑)。そういう迎えられ方をしたので、まずはほっとしました。その日には、早稲田で歓迎集会があって、丸川さんが今紹介くださった、獄中で知り合った友だちとかも訪ねてきてくれました。
丸川 メイさんとの遣り取りも多く書かれていますが、出てきた段階で直に会われ、そしてどのような方針を持たれたのでしょうか。
重信 外に出てからは、「異議なしの世界を超える」をひとつのテーマにしてきました。メイに言われたことがあるんです。「あなたは「異議なし」と言ってくれる友だちに守られながらずっと生きてきた。でも、外に出たら厳しいことがたくさんあるから」。メイ自身の経験もあってそう言ったんだと思います。ただ、考えてみると、まだまだ異議なしの世界を超えた場所には辿り着いていない。今のところは、助けてくれたり共感してくれたりする人たちと会っている感じです。自分の人生はそんなに長くないので、できる範囲の中で、私の話を聞きたいと言ってくれる人たちと一緒に活動をつづけていければいいかなと思っています。
丸川 なるほど。さらに外に出た瞬間のことをお聞きしますが、特に身体感覚において、何か大きな落差があっただろうと推察されます。
重信 細かいことを言えば、ケータイにしてもパソコンにしても、最初は使い方がよくわかりませんでした。パソコン自体は向こうでも使っていたけれど、今のものとはまったく違う。すべてがゼロからやり直しです。生活の面では、まだまだ慣れません。だけど、自由に歩けるというのが何よりも嬉しかった。ここしか歩いちゃいけない、この道しか通っちゃいけないっていう規則の中で、二〇年以上生きてきたわけですから。
獄中では、階段を使うことさえ許されませんでした。病人だったからかもしれませんが、全部エレベーターで移動させられた。だから今は、階段の上に立つのが怖いんです。崖の上に立ったみたいな感じになって、もう何十年も階段を降りる機会が無かったので体が自然とすくんでしまうんです。地下鉄に乗る時も、昇るのはまだいいんですけど、降りるのが駄目です。そういう身体的な変化はあります。
丸川 それと、あまり知られていないようですが、執筆活動以外にも、いろいろな形で活動なされていますよね。
重信 一番変わったのは、今の話にも関わることだけれど、好きに動くことができるようになったということです。何を書いてもいいし、どこで何を話してもいい。すべて自分自身のために時間を使うことができる。組織に入って政治活動をしていると、何をするにしても制約がありますからね。もちろん責任も付いてまわります。個人であれば、個人の責任の範囲内でやりたいことができる。特にパレスチナとイスラエルの問題が起こってからは、あちこちから発言を求められていて、可能な限り対応するようにしています。
丸川 例えば、どのような発言の機会があったのでしょうか。
重信 つい先日も松本に行って、高校生たちと話をしたんですよ。若い人たちって、私たちの時代と変わらないんだなと思いました。みんな発想が新鮮なんです。だけど、それを表現する方法や手段がない。結局、周りに人がいないんですよね。昔の私たちには、必ず周りがあった。
重信 たとえば自治会室という場があり、そこに行けば必ず誰かがいて助け合える。そういう空間がありました。自治会室だけでなく、街にいくつもの場を作っていた。だから、いつでも活動することができた。今は自治会室すらないし、集まって話ができる場がなくなってしまった。本当に小さくていいんですよね。生きていく場、生活する場が必要だと思います。それをみんながそれぞれ作っていく。そういう意味では、向こうに行ってよく話したことがあります。当時は自分たちで何でもできると思って、夢に燃えていた。あの時は武装闘争だったけれど、そうではなく、自分たちのことを一番よく知ってる人がいるふるさとに帰って、合法性を生かして、合法的に闘う。それを私たちはやってこなかった。ヨーロッパの人たちを見ていると、もちろん法律の違いはありますが、合法性をギリギリ利用して抵抗をつづけている。私たちも、みんなが自分の持ち場で対抗社会的に活動をしていたら、日本をこんなに悪くすることはなかったんじゃないか。連合赤軍事件を大きな契機として、左翼は社会の中で発言しにくくなって落ち込んでしまった。でも落ち込んで黙っていること自体が、社会総体の中では権力を利していることになる。まだまだ頑張らないといけないよと、今はもうひとりの自分が励ましてくれている感じです。
丸川 若い世代との交流の途上で、何か気づかれたことはありますか。
重信 ひとつ気になったのは、今の若い人たちって、「我々」ではなくて「私」なんですよね。私たちは昔「我々」として闘ったけれど、今は主体性が問われる。「私」はどうするのか。そこには良さと難しさがあると思うけれど、「私」から出発している若い人たちを見ていると、何とか力になりたいと思ってしまう。そんな能力がないことはわかっていますが、ついこちらから声をかけたくなります。
丸川 場を作るっていうことが今一番重要なんじゃないかと、思います。昔の大学と比べると、学内にそういう場が少なくなってしまった。むしろ大学当局からの抑圧の力がかなり強くなって、あるいは教授たちもそれに迎合していて抑え込まれている。それが現状だと思います。大学の中と外を問わず、そういう場を作らないといけない。重信さんが「対抗社会」とおっしゃったけれど、場を作って連結し、うねりを作りながら対抗していくというイメージが必要ですね。社会を変えるには、それしかないと思いますね。
重信 ひとつの場を作って、それが横に繫がっていければもっといい。でも、そのことが自覚されていなかったりする。もうちょっとネットワークが広がっていったらいいと思いますね。
丸川 重信さんの『はたちの時代』を読むと、街角のいろんな場が出てきますよね。私が知っている場所も出てきました。自分が大学に入ったのは一九八四年なんですが、駿河台で「味一番」という中華屋さんによく通っていました。重信さんの活躍されている頃から、十数年ぐらい経っていた頃のことですが。
重信 まだあったんですね。学生会館の部室まで、餃子とかニラレバ炒めとかを出前してくれたんですよ。電気釜でご飯を炊いて、みんなで「同じ釜の飯だね」と言いながら毎日食べていました。
丸川 自分の学生時代、その「味一番」のおばあさんが、「昔の学生には、いいドラマを見せてもらった」とか言っていました。今から思うと、それは重信さんたちのことだったのだろう、と。あの駿河台のストリートと大学(学館)がまさに闘争の現場として繫がっていた、ということですね。
重信 神田駿河台の町内会に、顔見知りの防犯担当の人がいたんですよ。そういう人たちが「機動隊が今日、学館に入るかもしれない」とか教えてくれた。「書類を預かって欲しい」とお願いすると、「俺のところでいいの。警察に見せてもいいかい?」とか、冗談を言いながらも預かってくれた。そんな時代でした。
丸川 そういう繫がりが日本社会から消えていったのが、一九八〇年代から二〇〇〇年代だったと思います。それが今に続いています。かつてあった感覚、それを作り直すこと自体難しいし、どうすればよいのか途方にくれます。でも、重信さんの本を読むと、かつての時代と今を照らし合わせることもできる。重信さんの本を読むこと自体が、類まれなスリリングな体験になると思います。(おわり)
★しげのぶ・ふさこ=明治大学在学中に社会主義学生同盟に参加し、共産同赤軍派の結成に参加。一九七一年に出国、パレスチナ解放闘争に参加。著書に『わが愛わが革命』など。
★まるかわ・てつし=明治大学教授・東アジア文化論。著書に『魯迅出門』など。
書籍
| 書籍名 | 獄に暮らせば |
| ISBN13 | 9784867931486 |
| ISBN10 | 4867931489 |
