対談=原 和之 × 荒谷 大輔
ラカンと転移、そしてその先へ
ラカン・フロイト関連書籍の多数出来を受けて
今冬、荒谷大輔・小長野航太・桑田光平・池松辰男ほか著『詳解 ラカン『精神分析の四基本概念』 無意識・反復・転移・欲動』(福村出版、改題新版)をはじめとして、ラカンやフロイトに関連する書籍が数多く出版された。フロイトへの、またラカンへの立ち返りの機運が高まっていると言えよう。東京大学の原和之氏と慶應義塾大学の荒谷大輔氏に、去る4月24日、ラカンと精神分析の未来について語っていただいた。(編集部)
原 今年の東大入試では、国語・英語の二科目で精神分析に関連する問題が出題されたので驚きました。国語は昨年夏に刊行された松本卓也さん『斜め論』(筑摩書房)から、英語はペンギン・ブックスで刊行されたアダム・フィリップスによるフロイトの入門書からです。シンクロニシティですね。さらに最近連続したラカン・フロイト関連の新刊出来もあります。精神分析が何らかの盛り上がりを見せているのではないかと期待を抱いています。
荒谷 それはどんな種類の盛り上がりなんでしょうね。
原 大学一、二年生向けに精神分析学の授業を持っているのですが、学生たちは興味を持って受講してくれます。さすがに人数は多くないのですが、自分事として考えている手ごたえがあります。私としては、どのようにして精神分析という分野への入り口を設えるか、ということを考えながら授業をしています。
ただ、私自身は臨床に携わらないので、その意味では期待に応えきれていない実感があります。「自分事として考える」というのは、自分や友人、家族の悩みが念頭にあるからで、そうした問題に対する選択肢として、精神分析がある程度身近になっているのではないかと思います。そんな感じはしませんか?
荒谷 そうですね、私の場合は社会分析の文脈でラカンを用います。社会的な無意識として我々が共有しているもののなかで自らが現在取っているスタンスを精神分析の枠組みから見る議論です。学生自身が内面化している社会的コードを掘り下げるアプローチを採るのでポジティブな反応はもらえますが、臨床的な意味でのラカンが学生にとってどのくらいリアルなのかは、正確には測りかねるところがあります。ラカン派の精神分析を受けているという声はちらほら聞かれるのですが。
原 学生に任意回答の形で質問してみると、確かに精神分析を受けたことがあると言う人がいますね。精神分析が専門でない教員のなかにも、実は受けていた、と打ち明けてくださる方もいます。かつて精神分析があくまで遠い世界のものだった、2000年代初頭の状況からは徐々に変わってきているように思います。ここ20年位の変化ではないでしょうか。
荒谷 この何年かでも初学者がアプローチしやすい本がいろいろと出版されていますから、それらの貢献も大きいように思います。精神分析への認知が進むと同時に、自分事として考える人が増えてきているのかもしれません。ただ、精神分析は主体性を宙吊りにする技術でもあるので、下手な依存が生まれるとなお危険なこともありうるわけですけれど。
原 学問は一般に、予備知識がないとなかなか踏み込めないというところがありますが、精神分析の場合は差し当たり、自分自身に出発点を見出すことができます。社会学や哲学などに繫がる入り口として、精神分析が機能することを期待する気持ちはあるのです。このあたりが入試問題にも向いていた所以だったのではないでしょうか。
荒谷 先ほどお名前が挙がった松本卓也さんは、今年一月に新書で『ジャック・ラカン』(岩波書店)を上梓されていますね。フロイトの五大症例に立ち返り、基礎からラカンを読解する本ですが、それぞれの症例を暗黙の前提とせず、内的なロジックも詳述しています。ここにあらためて「フロイトへの回帰」を見ることができるかもしれません。精神分析的なものをきちんと基礎からもう一度理解することへの需要があるように思います。西見奈子さん『フロイトの灯』(筑摩書房)、ジャック・アンドレ『100語でわかるフロイト』(白水社)といった本もそれに類するものと言えます。
原 岩波書店からは、著書に『ラカン 真理のパトス』(人文書院)のある上尾真道さんの『異境のフロイト』も上梓されました。フロイトに立ち返るという機運は確かにあるのだと私も思います。
松本さんの新書の冒頭にも「なぜ今精神分析か」というトピックが見られます。その意識は、この界隈に常に存在しています。精神分析には常に、「自分は何をしているのか」と自問し続けてきた歴史があるのです。その過程で、しばしば分裂が起き、分派が立ち上げられてきました。当時行われてきた分析に飽き足らないものを感じてユングはフロイトと訣別しましたし、現在の臨床心理学において盛り上がりを見せている認知行動療法の源流である認知療法も、もとは分析の訓練を受けた創始者アーロン・ベックがそれに満足できずに立ち上げたものでした。
贔屓の引き倒しになると良くないですが、精神分析は近代の精神療法の活力を生み出してきた側面があります。そしてそれは非常に騒々しい歴史でした。ラカンはその最たるもので、フロイトの運動の一番賑やかな部分を継承していると言えるでしょう。
荒谷 確かにその通りだと思う一方で、私は自分がそうした精神分析の動きの外側にいることを、どこか幸いに感じているところもあります。党派的な対立が起こり、セクト化と界隈の突然の発展が生じるというところに、ややネガティブなものを感じるのです。
原さんがおっしゃったように、精神分析は分派するたびに、フロイトへの遡及や新たな解釈の発明を繰り返してきました。とりわけラカンは、フロイトを精神分析の父として扱うことを批判しながらも、そこに立ち返ることを意図的にやっている。しかし、そこには単なるテクストの再解釈とは異なる、「組織化」の要素もあるような気がして、その閉じ方が学問として見たときの精神分析の弱さにもなっているのではないかとも思えます。
原 弱さですか……。精神分析の継承に関わる、難しい点ですね。まず、松本さんが述べるように、ラカンは異端でありながらフロイトへの回帰を徹底していた、ということの意味を考えなければならないと思います。正統な訓練を受けた分析家が、誰に分析を受けたか辿っていくと、必ずフロイトに行き着きます。それが分析家になるための一方の条件だったわけです。そして他方には、そこで行われる訓練によって、分析家としての資格が認定される制度がありました。
しかし、戦後すぐのフランスには直系の分析家がすごく少なかったのです。当時の分析家はほとんどがユダヤ人で、ヨーロッパから亡命しなくてはならなかったからです。フロイトから直接に分析を受けた分析家から分析を受けた、いわゆる第二世代と呼ばれる分析家はごくわずかしかいませんでした。そのうち当時有力視されていたのはラカンとダニエル・ラガーシュ、そしてサシャ・ナシュトで、この三者のせめぎあいの中で、ラカンという特異な存在が育まれました。
精神分析の教育には経験の比重が非常に大きいと言えます。しかし、当時のフランスの状況では、それを当然のものとしてしまうと普及が妨げられてしまう。そこでこの伝統を超えて、分析のあり方を考え直そうしたのがラカンでした。ナシュトは精神分析を精神医学の一部に位置づけようとしました。ラガーシュは臨床心理学の一部と考えた。ラカンは、他の分野に解消されない独自性を持つと主張しようとして、ナシュトが主導権を握ったパリ精神分析協会から分かれてフランス精神分析協会を創設したラガーシュに合流します。そこでさらにラガーシュと理論的なヘゲモニー闘争を繰り広げるなかで、ラカン自身、精神分析とはどういうものかということを突き詰めて問わなければならなかったという状況がありました。
荒谷 ラカンが独自性を打ち立てること自体が、フロイトへの立ち返りによっているわけですね。フロイトの言説の一部を批判して近代科学の枠組みに寄せて生存をはかろうとしていた当時の精神分析の流れを批判し、パロール分析というかたちで精神分析を新しい「科学」へと展開させていきました。この意味でも、フロイトへの回帰は彼にとって重要だったと言えるでしょう。
ラカンは、精神科医クレランボーの弟子としてその理論を批判的に引き継ぎますが、それもまた「回帰」のひとつといえるかもしれません。精神医学には当時、器質論(脳の解剖学的な異常が精神疾患を引き起こすとする病因論)と心因論との対立がありました。クレランボーが器質論を取ったのに対し、ラカンは博士論文で、クレランボーが逆上することをおそらく十分に予見しながら意図的に心因論と見なされるフロイトを精神医学に取り入れました。しかし、ラカンは「フロイトへの回帰」に構造主義的な概念を取り入れる際に、精神医学における「構造」の発見者としてクレランボーを持ち上げて見せるということもやっています。ラカンの精神分析は、実際には器質論と心因論の対立を乗り越えるかたちで展開されているわけですが、その新しさが二重の意味での「回帰」として位置づけられています。
原 そもそも「回帰」と言っても、ラカンにとって帰る先が予め決まっていたというわけではないのだと思います。彼自身、晩年の講演で「帰郷(ノストス)というものはない」と語っていました。ある意味でラカンはフロイトを発明しているわけですよね。
荒谷 再発明している。
原 はい。ラカンは、分析を行う手段としての言語=パロールが十分に論じられていないことを問題視し、それを戦略的地点としてフロイトの再読をすすめるわけですが、ここにもまた騒々しい精神分析の歴史が顔をのぞかせます。ラカンが教育分析を受けたのはルドルフ・レーヴェンシュタインという人でしたが、彼の「精神分析技法におけることばの役割についてのいくつかの見解」という1956年の論文について、ラカンは1957年の論文「無意識における文字の審級」で、彼を名指さないままたいへん皮肉な調子で言及しています。この論文で1952年の仕事に基づいているということが殊更に強調されているのは、それ以降のラカンの言語についての議論に触れないための言い訳なのだ、というのです。精神分析における伝達の問題、とりわけかつて教育分析を一緒におこなった分析家との関係のややこしさが伺えるところです。ピーター・ゲイは『フロイト1』(みすず書房)で、フロイトが自分の感情生活には親しい友と憎い敵が必要だった、としたうえで、その両者が一人の人物に体現されていることもあるとも述べていた点に注意を促しています。ゲイはそうした存在として、ウィルヘルム・フリースを挙げていました。そしてご存じの通り、フロイトとフリースとの交流のなかで、精神分析は誕生したわけです。こうした関係は精神分析が伝達されるあらゆるところで反復されていると言えるかもしれません。
原 よく言われるのが、ラカンは治療のための分析よりは分析家を養成するための分析を考えていたということです。彼の立場からすると両者は同じものではありますが、しかしこの観点が、分析の終結をめぐる彼の独自の捉え方につながっているように思います。
通常の分析では、分析に来る人は自分の問題の原因について、つまり無意識について自分にはわからないが精神分析家は知っている、と思って分析にやってきます。分析に来る人と分析家の間には、「知」ということに関して階層的な関係がある。ラカンはこれがいわゆる「転移」の関係を成り立たせていると考えていました。ただ長きにわたる分析では、そしてとりわけ教育分析では、どこかの時点でそうした知の差はなくなることになる。この事態をラカンは、分析家が「知っていると想定された主体」の立場から失墜することだと捉え、これを手掛かりに分析の終結を考えようとしました。
この失墜が師弟間の敵対関係の成立という形をとった例は、精神分析の歴史で枚挙にいとまがありません。ラカンとレーヴェンシュタインの関係はまさにその類のものではないかと思います。精神分析の歴史が賑やかになるのはこれが理由のひとつではないでしょうか。
荒谷 その通りですね。そしてその構造は、分析から離れてかつての旧帝大の研究室の構造と重なる部分があると感じます。師弟間の疑似恋愛関係の下において、知識伝達と仲たがいが発生する。転移関係が知の伝承として生じていたわけです。そもそも学問というもの自体、「知っていると想定された主体」が大きな作用を持つものかもしれません。先行者が「知っていると想定された主体」と見なされ、弟子が転移を引き起こすという構造が、明治期以降の学問領域で再生産されてきたという側面もあったように思います。私自身はそうした風土がまだ少し残っているところで研究者になったので、精神分析の騒々しい歴史にはどこか身につまされるものがあるのでした。
ここには良い面もあるのですが、やはり肯定しきれない部分も大きいと思います。もちろん、ポリティカル・コレクトネスに訴えて、全てフラットにすればよいと言いたいわけではありません。特定の思考の枠組みを啓蒙し、皆でそれを共有するという方法は、枠組みそれ自体を問い直す道筋を閉ざすことにもなります。それは逆に社会的コードに合致しない欲望を抑圧することにもなるでしょう。トランプ現象などもそうですが、「正義」を笠に着た殴り合いも、抑圧された欲望の今日的な現れ方のひとつのように思われます。そうした一般性の暴力とは離れた文脈で知の伝達を可能にするものとして旧帝大型の仕組みを評価することもできるのでしょうが、しかし師との関係において真理を摑むことが目的となり、学問がセクト化してしまうと、そこを起点として社会的なものへ向かう視野がぐっと狭まる契機も生まれます。
私のスタンスとしては、社会に潜在する先行形態の無意識を分析するツールとしてラカンの分析手法を使います。転移を起こすといっても、キャビネットや研究室のなかではなく、人々の社会生活の様式が転換するきっかけを与えるようなアプローチをとりたいと考えます。だから、精神分析が父殺しも含めた父子関係のなかでその営みを続けていることに対しては、アンビバレントな思いを抱いてしまうのです。
原 それについてはフロイトがすごく良いことを言っています。転移の関係はなにも精神分析が作り出すわけではなく、分析の面談室の外でも、ありとあらゆるところにある、分析はそれを見えるようにするだけだと。じっさいそこには転移を転移として見えるようにする様々な工夫があります。そうした可視化の装置という意味で、精神分析はごく初歩の社会分析に繫がる役割を持てるのかもしれません。
荒谷 おっしゃる通りですね。ラカン自身が言っていたと思いますが、様々にある「野生の転移」の中のひとつの典型として、テクストを読むことが挙げられます。テクストの森に分け入ることで言葉から意味が引き剝がされ、新たな意味が創り出される過程には、明確な転移があるわけです。そこで重要なのは、テクストの他者性にさらされることで読み手の主体性が解体されつつ、新しく意味を創出する際の自己決定性が担保されるということですね。
テクストの書き手は、デリダ的な意味でも死んでいるし、実際リアルにも没していることが多い。すると、転移による読み手の主体性の問い直しが、「作者」の恣意的な介入から免れることになる。もちろん、テクストに内在する書き手の欲望が機能する場合もあるとはいえ、それは読み手がテクストに書き手の欲望を読み込むことによってはじめて起動するものですから、対人関係に現れるような硬直した権力関係が生じづらくなるのではないでしょうか。だから私は、ラカンをテクストとして読むことが重要ではないかと思っています。テクストクリティークをラカン研究にもっと深く導入したいのです。
原 テクストが重要な役割を果しているのは間違いありません。ただ、テクストを介した関係であっても、権力関係が生じてしまうことはあります。師匠のような人がテクストの読み方を決めてしまうと、それはある種の権威になりうるわけです。これは精神分析の世界では、有力な分析家が行うセミネールなどのケースですね。ただこれに対して、ラカン派には「カルテル」という文化も存在します。ある種の読書会で、一つのテクストを複数人で読む集まりのことです。複数人で読む仕組みを導入することによって、特定解釈の権威化が防げるということが期待できます。ラカンは分析関係を突き詰めるなかで、師弟の分離の激しさを極限まで社会関係に拡張しつつ、継承にまつわる問題を考えたところがあり、「パス」という制度もそのようななかで生まれてきています。
転移的な関係がどこでも避けがたく生じるものだとして、それへの対応は、大きく二つに分けられます。精神分析はまず、これを意識化できるようにするという方向を示しました。これは一つには、転移に無意識にアクセスできる場所という一定の意味が認められていたということがあります。他方、これを緩和する仕組みを考えるという方向もあり、これは教育や精神医療という場面で取られている方向だと思います
荒谷 先述の『斜め論』では、オープンダイアローグの実践が取り上げられていますね。それに代表されるような、垂直方向の転移ではなく横に開いていく手法が、筋が良いように思われます。そこでは、超越的な欲望の対象が設定されてみんながそれに向かって駆り立てられるのではなく、横のつながりの中で、そこここに超越的なものが立ち上がっていく状況が「斜め」と呼ばれているのだと思います。
変容が起きる際にはしかし、縦の力動はどうしても発生せざるをえません。斎藤環さんも提題するような、「たかが対話によってなぜ治療が起きるのか」という疑問には、横の広がりのなかであっても、まさに垂直を志向する力動が生まれるからと答えるべきでしょう。誰かにコントロールされて変わるのではなく、各々が他者に開かれながら変わっていく。そうした仕組みを治療においても教育においても目指すべきだと考えます。
原 そうですよね。まさに「斜め」、垂直と水平の対比はそこに妙があるわけです。そして垂直への志向は同時に複数の場所で生じるべきだというのもおっしゃる通りです。しかも、主体が相互に連関して垂直を目指す必要もありません。言い方は難しいですが、超越的なものが現れてくるに任せること、そしてそれをどのように言語化し、伝達するかという問題は、分析の枠組みの外でそうした転移的な力動が生じる時にどうすればよいのかという問題と共に、すごく大きなトピックだと思います。
荒谷 私は、社会的な枠組みのなかで個々人の超越を立ち上げるためには、経済の問題が重要だと考えます。これは分析を受けるために必要なお金を用意することができるか否かという格差の話ではなく、資本主義的な構造を内面化することが必須とされる状況では超越的なものの生起によって生まれる効果も限定されざるを得ないのではないかということです。その点で言えば、ラカンを含めた精神分析の営みは経済的な構造に対して何の変化ももたらしていないのではないか、という疑いさえ持っています。分析によって精神構造の変化が引き起こされても、最終的に分析家とクライエントとの関係を「お金」で清算することが推奨されます。依存関係を断ち切る手段として「お金」が積極的に用いられるわけですね。しかし、そうすることで資本主義経済における価値発生の仕組みを揺るがす実践を手放すことになっていると思うのです。
我田引水になって恐縮ですが、私は「贈与経済2.0」という研究プロジェクトにおいて、ラカンの議論をベースに社会的な実践を行おうとしています。贈与経済とは、モースが言うように、贈与によって生み出される「負債感」を媒介として物やサービスが流通する仕組みでした。負債感を基礎にした関係の束縛が、未開社会における「フェアネス」を規定していました。貨幣を媒介にした交換体系の代替によって、関係はお金によって後腐れないかたちで清算できるようになりましたが、そこで獲得された「自由」はしかし、「お金さえあれば関係に依存しなくても生きていけるシステム」自体に対する依存を内包することになります。当然そこでは、システム自体に対する批判的な問い直しは生起しづらいことになるでしょう。そうしたシステムへの依存も外して問い直せるような経済の仕組みを考える必要がある、というのが贈与経済2.0の問題意識になっています。精神分析的な実践は、そのような仕組みを構築するために用いるべきではないかというのが、私の立ち位置になります。精神分析が、貨幣経済の価値基準に回収されないような超越の立ち上がりを引き起こしつつ、社会システムに内包された価値を転換させる端緒を提供できないか、と期待しています。
原 分析が引き起こす変化は、その枠組みとしての経済的な基盤に到達しないのではないか、という疑念ですが、それに近いことをスラヴォイ・ジジェクが言っていますね。ジュディス・バトラーへ向けた批判のなかで、バトラーの言う再意味付けでは不十分であり、社会の枠組み、要するに現在の資本主義経済にまで踏み込んで、別の経済や政治のありかたまで考えないと意味がない、という主旨のことを述べているのを目にしたことがあります(『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』青土社)。
精神分析自体、関係のリデザインというテーマを含みこんでいます。その中で、政治との関係は大きなトピックになってきますね。ただ、ジジェクのようにマルクス主義に立ち返る動きがありますが、私自身はジジェクの言うような分析と政治のリンクをきちんと整理することができていません。
荒谷 いわゆるラカニアン・レフトの展開ですね。ラカンが資本家のディスクールと呼ぶものを精緻に分析することで、リベラリズムの枠組みを明らかにし、批判的に乗り越えていくアプローチかと思います。自分自身を苦しめる内面化された社会的コードを、横と縦の繫がりで変えていくという意味では、贈与経済2.0もそうした文脈に位置づけられるのかもしれません。
ラカンのディスクール論自体、まさに68年5月を受けて練り上げられた理論でした。ラカンは、ヒステリーのディスクールに陥らないような形での社会変革の可能性を示そうとしたわけですが、その道筋には今も可能性があると思います。
原 さて最後に、今回改題新版で出版された『詳解』が扱う『精神分析の四基本概念』について触れましょう。「四基本概念」、すなわち無意識、反復、転移、欲動の四つは、概念の位相がそれぞれ重なっています。だからラカンの議論も行ったり来たりを繰り返し、ある話が気づいたら別の話になっているという展開の仕方を取る。そもそも、なぜこの四つなのかという疑問もあります。
荒谷 実際、難しいところですね。
原 少なくとも、ラカンはこの四つがいずれも当時誤解されていると思っていたのでしょう。他にも重要な概念はあったでしょうが、これら四つを選んだのはラカンの慧眼というべきものでしょう。
荒谷 無意識についての議論でラカンは、構造主義的な枠組みを導入します。ただ、単なる構造主義的な言語学だとスタティックな構造に終始し、転移が生ずる様相を示すことができません。そこで反復という概念を経由して転移に接続しようとしたのでしょう。そして欲動は、転移を説明する中で議論が設定し直される。『四基本概念』の議論はそういった形で展開していると思います。
原 ラカンの議論と構造主義は密接に絡み合っているわけですが、構造主義には言語に注目する観点と、数学に注目する観点がありました。そして1950年代のラカンは、言語の「構造」について、さらに二つのタイプを念頭に置いていたと思われます。一つはソシュールが定式化したような、差異の体系によって定まるシニフィアンとしての構造です。今一つは、ゼリグ・ハリスというアメリカの言語学者に起源が求められるところの、言語の分布構造――ある語の後にどの語が置かれるかを見ることによって言語の構造を考える考え方――です。あまり強調されてきませんでしたが、これらが彼のなかでせめぎ合っていたのではないでしょうか。
分布構造というアイディアは、ハリスからエミール・バンヴェニストを経由してラカンに流れ込みました。なお、彼らが注目した分布構造は、分布意味論という分野の基礎であり、大規模言語モデル(LLM)をもとにした現在のAIの理論的支柱の一つとなっています。その意味で、ラカンの議論の現代性を考える際に、言語の分布構造に注目することには見込みがありますし、そもそもラカンにはこちらの方がより効いていたように思われます。
荒谷 バンヴェニストはどういった経緯でラカンと関わるようになったのでしたか。
原 ラカンは50年代の初めに、構造についての研究会に参加します。参加の経緯は不明ですが、そこにはバンヴェニストや、レヴィ=ストロース、数学者のジョルジュ=テオデュール・ギルボーらがいました。
そのバンヴェニストは、アメリカの言語学が分布構造を客観的に定義することにばかり興味を持って意味を等閑視していることを批判する論文を書いています。バンヴェニストはこれに「可能な諸用法の集合」によって「意味」を定義するというアイディアを対置しますが、このアイディアを、ラカンはバンヴェニストの名を挙げながら、最初のセミネールにおいて紹介しました。そしてその延長線上で、分布構造をもとに考えられる「意味」があるという発想に至ったのではないかと思います。
荒谷 ギルボーが入っていたことは、ラカンの後期思想にまで繫がる射程をもちそうですね。
原 そもそもラカンが「ボロメオの結び目」を知ったのは、ギルボーのセミナーに通っていた数学者とある夕食会で同席した際の会話でだったそうです。確かに、ラカンの数学的なアイディアの源泉として、ギルボーは重要だったでしょう。
荒谷 先ほどLLMについて一瞬触れられましたが、AIとラカンの関係というのは一つのホットトピックです。そして、LLMに基づくAIは人間の脳のニューラルネットワークを模した構造を呈するわけですが、そこには神経科学と手を携えた「神経精神分析」という領野が関係してくると思います。
原 2017年には久保田泰考さんが『ニューロラカン』(誠信書房)という本を出していますね。反対に、今冬出版されたエリック・ローラン『認知主義に彷徨う』(水声社)は両者の距離を強調するものとして読むことができます。
ただ、LLMの発想とラカン理論の発想が似ているからと言って、人間の神経系の構造とラカン理論が完全に重なるとみなすところまで踏み込むことができるのかどうか、という点にはまだ確信が持てません。ゼリグ・ハリスは、意味が似ている時には語の分布も似ており、逆も然りだとする「分布仮説」を唱えました。しかし、ラカン自身はそれとは異なり、分布構造のなかで一つ一つの語を選択することが、それ自体人間の主体的な体験であり、そこに「概念」でも「実在物」でもない、独自の「意味の界域」があるのだと考えていたのではないかと思います。ハリスのように主観的なものと構造的なものを平行的に考えるのか、あるいはラカンのように、その構造のなかでまさに意味の経験が発生しているとするのか、という差異がここにはあります。
フロイトは初期の『失語論』のなかで言語の構造を考えた際、脳の構造を直接参照するかわりに、いわば心理学的な独自の構造を考えました。ラカンもあくまで言語学的な構造を考えたわけですし、実際にそう考えた方がよいようにさしあたりは思っています。
荒谷 とはいえ、フロイトの『心理学草案』においては、言語的な連合も「通道」という神経的な道筋を表す概念を用いて説明されます。神経細胞のネットワークを、言語的な差異の体系として十分に汲み尽くせるかどうか、議論は途絶えていないと思います。
例えば、ジョン・ダラリオという人が2024年にA Lacanian Neuro-psychoanalysis(未邦訳)という本を出しました。ジジェクなどが推薦文を寄せて盛り上がった一方、ラカン派内部からは批判が飛び出し、アメリカの雑誌上での論争に発展しましたね。確かに、ラカン理論の細かなところの扱いがやや大雑把な印象も受けましたが、神経精神分析の発展の中にラカンを位置づけ直そうという流れには、大きな可能性があると思います。
一方、日本では平井靖史さんが、脳科学とベルクソンを深く掛け合わせ、自然科学者との響きあいのなかで議論を展開しています。哲学的な言説を現代科学に思考の枠組みを提供するものとして機能させようとする試みには、可能性があると思います。こうした研究の方向性ともラカンの相性はすごく良いと思います。
原 ジジェクは6年前に『接続された脳とヘーゲル』という本を出しています〔原氏を含む5名の共訳で誠信書房より6月に邦訳出版〕。「接続された脳」というのは、脳を直結する形で他者が経験されるようになった状況のことを指します。このときにも「無意識」は残るだろうかという問題を彼は立てるわけです。脳科学の進歩によって精神分析が新しい問題に直面しています。あるいは、ジェンダースタディーズやクィアスタディーズの観点からの精神分析への批判を踏まえた精神分析家の新しい試みもなされています。そうした試みの一つであるファブリス・ブールレーズ氏の『クィア精神分析』の拙訳が水声社から近刊予定ですが、いずれにしてもこうした新しい条件の下で精神分析を考え直さなければならない時が来ていると言えるでしょう。(おわり)
★はら・かずゆき=東京大学教授・西洋思想史・精神分析学。著書に『ラカン 哲学空間のエクソダス』、共著に『詳解 ラカン『サントーム』』『ことばを紡ぐための哲学』など。一九六七年生。
★あらや・だいすけ=慶應義塾大学教授・哲学・倫理学・社会実践。著書に『ラカンの哲学』『資本主義に出口はあるか』『贈与経済2.0』『「経済」の哲学』など。一九七四年生。
