小出裕章ロングインタビュー(聞き手=佐藤嘉幸)
<原発と日本の社会運動>
科学者としてどのように反原発活動に関わってきたか
東日本大震災による津波に端を発する福島第一原子力発電所事故から、一五年を迎えた。能登半島地震(二〇二四年)の震源近くの珠洲市では、原発建設が計画されていたことも記憶に新しい。建設を阻止したのは、住民らの長年にわたる根気強い反対運動だった。日本は地震大国である。四月一日にも、茨城県南部を震源とする、震度5弱の地震が発生したばかりだ。果して、この危険な列島で、原発を稼働し続けてもよいのだろうか。学生時代から反原発活動に携わってきた小出裕章氏(元京都大学原子炉実験所助教)に、自らの運動の歴史を振りかえっていただきながら、お話を伺った。聞き手は、筑波大学准教授の佐藤嘉幸氏にお願いした。(編集部)
佐藤 これから二日間にわたって、小出裕章さんが科学者としてどのように反原発活動に関わってこられたかをインタビューしていきます。今日の主題は「原発と社会運動」です。今年は福島第一原発事故から一五年目に当たります。そこで、避難者の方がどのくらいおられるかを調べてみると、いまだに二万四千人近くの方が福島県から避難されている。
小出 それはどういう数字ですか。福島県が発表している数字ですか。
佐藤 そうです、福島県発表の公式の数字です。実際にはもっと多いと思いますが、公式の数字ですら二万四千人近くです。福島第一原発周辺にはいまだに広大な避難区域が広がっており、故郷に帰れない方々がたくさんおられるわけです。
まずその点からお伺いしたいのですが、科学者として、この一五年間どういうことを考えてこられましたか。
小出 私はずっと放射能や原子力に関わってきて、京都大学にいた最後の最後の頃、六一歳の時に福島第一原発事故が起きました。それまでいつか大きな事故が起きるよと警告をしてきたつもりだったのですけれども、原発を止められないまま時が流れて、結局福島第一原発事故が起きてしまった。
自分で言うのも変ですが、福島第一原発事故が起きたときには、これは本当のことなのかと思いました。確かに起きるぞと僕は言ったけれども、こんなことが本当に起きるのかということで、悪夢を見ているのかと思ったときがありました。
でももちろん悪夢ではなくて、事実として原発が壊れて膨大な放射能が吹き出してきて、大地を汚してたくさんの人が生活を根こそぎ破壊されることが起きたわけです。自分の頭を整理できないような出来事がずっと進行して、でも、私は原子力の現場にいた人間ですから、普通の人とは違う責任がある。
現実のその事故に向き合うしかないということで、自分のできることをとにかくやろうとしました。その後四年ほど経ったら私は定年になり、京都大学を退職しました。
でもその四年間が、私にとってはとてつもなく辛い日々で、忙しくて寝る間もない、というような生活を送っていた。平日の勤務時間は京都大学の教員としての仕事があったわけだし、それ以外に福島第一原発事故に向き合わなければいけないということで、本当に忙しかった。
四年過ぎて定年退職したときにはもういい加減休みたい、と思いました。今佐藤さんが松本に来てくださっているけれども、私は松本という街に行って、そこで仙人になりたいというような宣言をしてこの街に来たのですけれども、でも、僕がどうこうしようとも福島第一原発事故がどうなるわけでもなくて、ずっと苦難が続いている。
特に僕は辛かったとか忙しかったとか言うけれども、実際に被害を受けた方々は僕の比ではない苦難を背負わされたわけです。先ほど佐藤さんが、二万四千人がいまだに家に帰れないとおっしゃったけれども、たぶんもっともっといるはずで、人生を根こそぎひっくり返された人が万の単位でおられるわけですね。
一人とか二人とか一〇人とかいうのではなく、万の単位で、そういう人たちが一五年経って今も重荷を負わされたままということが続いている。
私は仙人になりたいと思ったけれども、そんなことは到底許されない立場だと思っていますので、松本に来てからも、私ができることを探しながら、少しでも福島の人たちの苦難を減らしたいと思って生きてきたという、そんな状態です。
佐藤 福島第一原発事故は現在でも継続中です。他方で、二〇二四年に能登半島地震が起きたわけですが、震源地のすぐそばに珠洲原発が設置予定でした。幸いにも反対運動によって、それが建設されなかったということがありました。
しかし、地震が起きた後、そこに原発があったらということを、多くの人が自問したわけです。震源近くで土地が数メートル隆起したため、もし珠洲原発があったら大きな事故が起こっていた可能性が高い。しかも、さまざまな複合災害を考えれば、避難も屋内待避もまったくの虚構であることが明らかになりました。つまり、地震で道が寸断されて通れなくなって避難ができない、家が壊れてしまって屋内待避もできない、公民館や学校で屋内待避しろと言われても道が寸断されて辿り着けない、といったことです。こうした問題にもかかわらず、国は原発を再稼働させつつあるわけですね。この状況についてどのように考えられますか。
小出 原発は機械なのです。それも非常に巨大で複雑な機械。もっと重要なことは、膨大な放射能を抱えている機械だということです。
世界には四〇〇基を超える原発が作られました。一番たくさん原発を作った国はもちろん米国で、一〇〇基を超える原発を作りました。でも、米国という国はほとんど地震がないのです。地震があるのは太平洋岸の西海岸であって、米国はそれをもちろん承知の上で、原発はほとんど東部に作っているわけです。
ヨーロッパでは一五〇基ぐらいの原発を作りましたけれども、ヨーロッパはカンブリア台地という非常に安定した岩盤の上にあって地震がない。地震があるのはイタリアを含めた地中海沿いだけで、他のところは地震がないのです。だから原発を作れたということですが、なんと日本という世界一の地震国に原発を五七基も作ってしまった。初めからそんなことはやってはいけないというのに、なぜそれに気がつかないのかな、と私は思ってきました。
小出 そして、福島第一原発事故が、東北地方太平洋沖地震という、まさに世界一の地震大国の日本でしか起きないと言っていいぐらいの巨大な地震が起きて、福島第一原発が破局的な事故に追い込まれました。これは自然からの教訓だと思うのです。
自然という巨大な環境の中で人間という愚かな生き物がバカなことをしたということを、福島第一原発事故で真剣に学ばなければいけなかったと私は思うのですけれども、全然学ばなかったわけです。
それで自民党政権は、だんだん時が経つのを待って、原発を再稼働させる、新しい原発もどんどん作るというような方向に向かってきた。そして時が流れて、能登半島地震が起きたわけです。自然の方からまた非常に重要な警告を与えられたわけですけれども、それでも全然懲りないのです。
一体、この国はどういう国かと思うけれども、何度も何度も警告があってこんな地震国に原発を立てること自体が間違えていたのだということをなぜ気がつかないのか、と私は本当に不思議に思います。
事故が起きるというそのこと自体ももちろん学ばなければいけないし、もし事故が起きてしまったら住民の避難なんてできないということは福島第一原発事故でも十分に知ったはずだと私は思っていましたし、能登半島地震はまたそれを決定的に証明してくれているわけです。佐藤さんがおっしゃったように、もし事故があっても道路は寸断されて通れないわけだから避難したくてもまず避難できない。
そうなると今、国は屋内退避だというようなことを言っているけれども、家が潰れていて屋内に逃げられないというそういう警告まで自然がちゃんと与えてくれているのに、新規制基準を作って原発は安全になりましたかのように言う。本当はそうは言っていないのです。新規制基準に合致したことは認めるけれども、安全だとは言わない、と原子力規制委員会自身が言っているわけですから、原発の安全は定義上責任が取れるような形ではありえない。
でも、政治の場に行くと、「新規制基準をクリアした安全な原発は再稼働する」といった言葉にすり替わってしまうわけです。安全だと言っても、もし事故が起きたら実は避難もできない、ということになっているわけで、何重にもウソを重ねながら再稼働をやろうとしている。
それが能登半島地震で再び明確に示された。ちゃんと受け止めなければいけないと思うけれども、残念ながら、この国はそうではないということが証明されてしまったのだと思います。
佐藤 日本はどこでも地震が起き得るという特殊な地理的な条件を持っていると思いますし、しかも原発と地震ということで言えば、すでに二〇〇七年の新潟県中越沖地震によって柏崎刈羽原発で火災と事故が起こっている。にもかかわらず、能登半島地震の後に再稼働する原発がこの柏崎刈羽原発なわけですね。日本列島は恐らく、阪神淡路大震災の頃から地震の活動期に入っているし、日本列島ではどこでも地震が起きる可能性があることを考えると、原発の再稼働というのがいかに愚かな行為かがよくわかると思います。
佐藤 ここからは、小出さんがどのように原発というシステムに反対する科学者になったのかをお伺いし、同時に小出さんと社会運動との関係についてお伺いしたいと思います。
小出さん自身は、東北大学で原子力の勉強をしようと工学部原子核工学科に入学されたときは、原子力については明るい希望をその時は抱いてらっしゃったということだと思います。その背景についてお聞かせください。
小出 私が東北大学の原子核工学科に行ったのは一九六八年です。その当時というか私が高校中学、もう少し前の子どもの頃はどういう時代だったかというと、例えば若い皆さんは知らないかもしれないけど、「鉄腕アトム」という漫画があったのです。原子力で動くロボットなわけですし、アトムの妹はウランちゃん――もともと手塚治虫が描いたときは弟だったと思いますが――、コバルトという名前の、また同じようなロボットもいて、これからは原子力の時代だという夢が振りまかれていたわけです。一九五四年に日本の国会で原子炉建造予算が可決されて、その頃は原子力のバラ色の夢一色だったのです。
そういう時代に私は子どもの時代を過ごしてきて、日本というこの国がだんだん戦後から復興していくという、そういう時代に生きていたわけですけれども、ナイーヴだったというか、愚かだったというか、これから日本がちゃんとした国になるためにはエネルギーが必要だとまずは思ったし、化石燃料がなくなってしまうと、そうなれば広島、長崎という街を一瞬にして壊滅させるほどの力を持っている原子力というものを、爆弾ではなくて人間の平和のために使えるのではないかと思い込んでしまった。
私は中学、高校の頃は実は地質部というクラブに入っていて、山に行っては石ころを拾ってきて石ころがどういう来歴でできたかというようなことに非常に興味を持って過ごしていて、将来はそういう世界で生きたいな、というふうにずっと思っていました。宮沢賢治さんという人もいて、石ころを拾ったりしながら生きていくという、そういう人生に憧れていました。でも、高校でもうすぐ自分の進路を決めなければいけないという時に、今の世界ではやはりそんなことをしているよりは、原子力の方がきっと人々のために役に立つと思い込んでしまった。
それで、大学に行くときに自分は原子力に人生をかけようと思って、地質学ではなくて原子力の世界に行くということを決めて、原子核工学科を選んだということです。
佐藤 恐らく、原子力には技術的な関心もおありだったと思うし、最先端の分野だったということもあったのだと思いますが、ただ同時に興味深いのは、小出さん自身が東京に住むのが嫌で、東北大学を選択されていることです。つまり、どこかエコロジスト的な部分があるのではないかと思うのですが。
小出 宮沢賢治さんに憧れていたというのもそうですけれども、私が中学三年の時だったか、一九六四年に、東京オリンピックがあった。私は東京の下町、上野と浅草のほぼ真ん中あたりで生まれて育ったのです。私が育った頃の上野、浅草というところは、東京の下町、江戸情緒を残すような町で、自宅から半径一〇〇メートルの円を描くと、八百屋はある、肉屋はある、医者も歯医者もあるし、もちろん薬屋もあるし、豆腐屋はあるし、何でも歩いて自分の生活を支えることができるという、そういう街だったのです。
とても気に入っていたのですけれども、それが一九六四年の東京オリンピックでガラガラと変わっていったのです。その頃までは、東京でも道路を車があんまり走っていなかったのですが、道路を車がばんばんと走るようになるし、ビルがにょきにょきと建つようになる。象徴的なのは日本橋の上に高速道路が走ることで、そういう街に東京が大変貌を遂げていくのを見ていて、この街は到底ダメだと、こういう街に住みたくないと思って、大学に行くときには必ず東京を離れるというふうに思っていました。
当時私は原子力をやろうとしたわけですが、原子力をやろうと思うと、いわゆる昔の大日本帝国時代にあった大学、七帝大と呼んでいましたけど、北から言うと、北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州という順番で七つの旧帝国大学があって、僕が大学に行こうとした頃に原子力を勉強できる場所は、その七帝大しかなかった。
東海大や立教大にも小さな原子炉はあったけれども、実質的には七帝大のどこかに行くしかない。とにかく東京を離れようとまずは思ったわけですし、私は暑いのがとことん苦手なので、とにかく涼しいところに行こうと、そうすると東京から離れて涼しいところというと北海道と東北しかなかったのです。北海道まで行かなくても東北でいいのではないかと、その程度の考えで、東北大学の原子核工学科に行くと決めました。
佐藤 ここで興味深いのは、小出さんは、一方では原子力という猛烈に巨大なエネルギーを作り出す技術を専攻しようと思いながら、他方ではエコロジスト的な側面を持っている。つまり、小出さんには最初から二律背反的な部分があって、それが最終的に原子力の専門家として原子力に反対するという科学者、いわゆる批判的科学者になるという道につながっていくように思うのです。
小出 今、佐藤さんが言ってくださった通りだと思います。自然に寄り添って生きなければいけないというのが基本だったはずなのですが、そんな私が原子力に夢をかけるという、今から思うと、本当に愚かな、自分の人生で最大の誤りを私はその時に犯したのだと思います。
佐藤 そして、東北大学に入学して、最初は恐らく真面目に原子力を勉強されていたと思うのですが、どこかで原子力に対する懐疑心が出てきたわけですね。小出さんは一九六八年入学だとおっしゃったので、その懐疑心は大学闘争や全共闘運動とも関係があると思うのですが、どういった形で、原子力の専門家として原子力の問題に疑念を持つという態度が出てきたのでしょうか。
小出 今、佐藤さんもちゃんとおっしゃってくださったけど、一九六八年というのはいわゆる大学闘争が本格的に始まった年だったのです。
私はその四月に東北大学に入ったわけですけれども、入った当時は、私は社会的な問題にはあまり興味がなくて、とにかく原子力をやりたいという一念に凝り固まっていました。ですから、全共闘運動は始まっていたけれども、私は興味もないまませっせと授業を受けていたという、そういう学生でした。今から考えると漫画のような話ですけど、大学に行ってもまだ私は、学生服を着て勉強していたのです。
年があけて、六九年一月に東大の安田講堂というところを学生が封鎖していたのを機動隊が解除するという出来事が起きました。私はもともとテレビ嫌いで、テレビをあんまり見てなかったけれども、何か偶然、生協の購買部のテレビで、その出来事が映っているのを見たのです。初めて、彼らは何をやっているのだろうということを考えざるをえなくなった、というのが六九年一月でした。
その一方で、ちょうどその頃は、東北電力が原子力発電所を作るという計画を公表した頃だったのです。東北電力というのはもちろん、東北地方に電力を供給する責任を持っている電力会社で、東北地方の最大の都市は東北大学があった仙台、その仙台の電気は仙台火力発電所という発電所が供給していたのです。その東北電力が原子力発電所を作るというときには、仙台原子力発電所ではないのです。
どこに作るかといったら、女川町という三陸沿岸の小さな漁村ですけれども、そこに原子力発電所を作るという計画が公表された。私はあまり社会的な考えがなかったので、東北電力が原子力発電所を作るということを歓迎したのです。
これからはそういう時代だし、私は原子力やりたいというのでむしろ歓迎したわけですけれども、女川の人たちがそれに対して、「なぜ仙台に原子力発電所を建てないで自分たちの町に原子力発電所を建てるのか」という声をあげたのです。その声を私は聞いた。それでなぜだろうなと思ったのです。
東北地方最大の都会仙台、そこで使う電気、もともとは仙台火力発電所が作って送っていた電気。仙台に発電所建てれば一番簡単なのに、なぜ女川という離れた場所に原子力発電所を建てるのかな、と。ふと、そういう疑問が女川の人たちの発言で私の中に浮かび上がった。
原子核工学科の教員たちに聞くわけですけれども、東北大学原子核工学科は原子力発電を推進するために作られた学科ですから、そういうメリットではない、むしろ原子力のデメリットというか、本当はあんまり触れてはいけないようなことには教員は答えないのです。でも、なぜだろうと僕は思ったわけだし、ちょうどその頃は米国で原発反対運動が勃興してきた頃で、今でもありますけど、憂慮する科学者同盟(Union of Concerned Scientists: UCS)という団体が米国で反原発運動を始めて、しきりに科学的な問題提起を発信するようになっていた。
小出 私は原子核工学科の教員に聞いても答えてもらえないので、UCSの論文とかを見ながら自分の疑問に答えようとしたわけですけれども、調べれば調べるだけおかしい、というふうに思うようになった。
一方で大学の中では大学闘争が進んでいて、安田講堂事件を機に私は彼らのやっていることが何なのか、ということを考えざるをえなくなってきて、それらが両方こうやって進んでいくときに、全共闘運動というのは、自分がやっている学問が社会的にどういう意味を持っているかということを自分の責任として答えろという運動なのだ、とそういうふうに僕は思ったわけです。
そうなると、僕自身がやろうとしている原子核工学という学問が社会的にどういう意味を持っているのか、つまり原子力発電というものがどういう意味を持っているのかということを自分の責任として答える責任があるのだ、と考えるようになりました。
ですから、徹底的にこの原子力発電の社会的な意味というものにまずは答える必要があると思うようになって、それまでも原子核工学科の教員たちと話はしていたわけですけれども、それからシビアな論争をするようになったのです。そういう論争が続けば続くだけ、原子力が安全だと学問の方から答える力がないということが僕にとっては明らかになってきた。
教員たちと話をしていると、教員たちは社会的エリートなわけです。国立大学の教員として、その上、原子力という最先端のところにいて、それなりに給料も得て安定した生活を送れるという立場の人たちが、自分たちの生活を守るために疑問を封じ込めて原子力を進めるという姿を見てしまいました。
私としては自分の生活のために問題を隠蔽するというか、蓋をしてしまうというような生き方は選びたくないと思ったわけで、確かに原子力に夢は持ったけれどもこの夢が間違いだったのだというふうに自分で納得するしかなくなってしまって、女川原発の反対運動に参加することになりました。
佐藤 その時に、漁民の方々がさまざまな反対運動をやっていたと思うのですが、小出さんが一人でその現場に行ったわけではないですね。仲間がいたのですか。
小出 はい、もちろんです。原子核工学科の中にも私の仲間がいましたし、先ほどから聞いていただいているように、大学闘争という時代でしたので、私の問題提起、つまり原子力はおかしいという提起に共感してくれる仲間がたくさんあちこちにいた。
佐藤 あちこちにいたというのは、つまり原子核工学科だけではなく、工学部だけでもなく、全学的にいろんな人たちが女川原発反対のデモに参加していた、ということでしょうか。
小出 そうです。私は工学部原子核工学科でしたし、工学部の中でも電気工学科の人もいるし、金属工学科の人もいる。理学部の人だっているし、医学部の人もいるし、経済学部の人だっているし、そのように、大学闘争という時代だったということがあると思いますけれども、女川で反対運動をするということに関して、たくさんの人が集まってくれて、私はその女川にボロボロの長屋を借りて、そこに半分住みながらビラなどを作って女川で撒いて歩いていた。たくさんの人が協力に来てくれて、長屋で入れ替わり立ち替わり生活していました。
佐藤 東北大学のある仙台からだと、女川は七〇キロくらいですか。
小出 そうですね。直線距離で六〇から七〇キロです。
佐藤 そこに家を借りて、さまざまな活動に参加されるようになった。細見周さんの『熊取六人組』によれば、「ノリヒビ」というビラを作ってそれを漁民の方に配っていて、これが好評だったということなのですが、どういうことを書かれたのでしょうか。
小出 さっきも聞いていただきましたけど、いろんな人たちが来てくれて、中にはいわゆるセクトに属している人たちもいました。そういう人たちも含めてビラを作るということで、セクトの人たちが作るビラは、私から見るとこんなのよそうよ、というような、「漁民よ立て」というような内容のビラだったりするわけだし。私は原子力を専門としていた人間として、原子力発電というのはこういうもので、こういう危険がありますというようなことを書いていました。
今その「ノリヒビ」というビラがあれば、また見てみたいと思うけれども、もう私の手元には何にもありませんし、きっとそれを保管している人ももういないと思いますけれども、当時の時代とそこにいた学生たちが、さまざまなことを考えてというか、愚かなことも含めてさまざまなことを考えていて、それをビラにして漁民に伝えようとしたということです。
佐藤 原子力発電の危険性とか。
小出 私はそういうふうにやりました。
佐藤 他の方は他のアプローチからやっていたわけですね。例えば活動家の方とか。
小出 そうです。さまざまなビラがあり、「ノリヒビ」という一つの名前のビラになりました。
佐藤 そこで非常に興味深いのは、先ほども小出さんが言われたことですが、現地の漁民の方々が「原発がそんなに安全なものだったら、なぜ仙台に作らないんだ」と言った、ということです。つまり、彼ら彼女らは、原発の危険性や差別性を理解していたわけですね。
小出 多分、今でも原子力発電所の立地に狙われた地域の人たちはみんな知っていると思います。
佐藤 この言葉は、さまざまな場所の原発反対運動のドキュメントを読んでいると必ず出てきます。「原発が安全なものだったら、なぜ都会に作らないのか、なぜ我々に押し付けるのか」という問いは、普遍的な問いなのですね。
小出 原発というような極めて危険なものを都会で引き受けることができないから、田舎に押し付けるという、そういう構造があったわけですし、今でもあるわけです。それに対して闘おうという人たちが女川にもいたし、珠洲にもいたし、それが成功した場合もあるし、敗れてしまう場合もあった、ということで今日まで来たのだと思います。
佐藤 大学闘争の特徴として、先ほど、自分たちの学問の社会性、自分たちの学問と社会の関係を問うという態度があると言われたわけですが、この場合、まさにそうした問いを外部から問われるわけですね。例えば漁民の方々とか。
小出 私は直接漁民から、「お前答えろ」というようなことは言われないけれども、そういう形で私が答えざるをえなくなったということです。
佐藤 逆に言うと、エスタブリッシュメントの学者、東北大学の教官たちはそういう問いを立てないようにしていたわけですね。
小出 もちろんです。それを立てたらもう自分の生活が成り立たない。ポストに留まれないということになってしまうわけですから。専門家たちは意図的に封印したのです。
佐藤 しかし、多くの人がそのように思っていた。つまり、原発の立地対象になった地域の住民たちは、そのことに――非常に明察だと思いますけれども――気づいていた。これは非常に印象的な事実ですね。
小出 当たり前のことなのですね。発電所というのは、電力消費地に建てる、というのが鉄則です。そうすれば送電線を敷かなくてもいいわけだし、送電ロスもなくなるわけです。発電所は消費地に建てる、というのが鉄則で、火力発電所なんてほとんどみんな都会に立っています。東京電力の火力発電所は遠くにあるのもあるけれども、ほとんどは東京湾です。関西電力の火力発電所だって、ほとんどは大阪湾にある。でも、電子力発電所に限っては消費地に立てないということをやったわけです。
それをやった人たちというのは、国であったり、電力会社であったりするわけですけれども、彼らは原発だけは絶対大事故は起きないと一方では言いながら、でも、大事故になったら困るからということで、そのリスクを回避するために原発を田舎に押し付けた。昔は原子炉立地審査指針というものがありましたけれども、その中には、原発の立地は都会を避けろと明確に書いてある。低人口地帯に立てろ、人口密集地からは距離を取れ、とちゃんと書いているわけですですから、彼ら自身が原発の危険を知っている。
それを知りながら安全だと言って地方に押し付けようとしたという、そういう歴史だったわけです。私はもう到底これは許すことができないと思いました。
佐藤 当時の文脈で言うと、一九五〇年代後半から七〇年代にかけて、公害が社会問題になっていましたし、科学と社会の関係をめぐって、公害を作るような技術というのはおかしいのではないか、という問いもあった。
小出 もちろんありました。水俣病は、ちょうど私が大学にいた頃に深刻な問題として現れてきて、企業も国も積極的に隠すわけです。それに学者が加担するようなやり方で公害を深刻化させていく、ということがあったわけで、そうした学問のあり方、国のやり方、企業の金儲けのやり方というのを、私としては認めることができないということになりました。(おわり)
※8月刊行予定の『原発と社会運動――科学者としてどのように反原発活動に関わってきたか』に完全版を収録)
★こいで・ひろあき=元京都大学原子炉実験所助教・放射線計測・原子力安全。著書に『原発事故は終わっていない』『原発のウソ』『放射能汚染の現実を超えて』など。一九四九年生。
★さとう・よしゆき=筑波大学准教授・哲学・思想史。著書に『新自由主義権力と抵抗』『脱原発の哲学』(田口卓臣との共著)など。一九七一年生
