2025/04/18号 6面

夏目漱石美術を見る眼

 現代美術を研究する筆者にとって、ここ最近の美術批評をめぐる状況はなかなかに暗い。批評の中身について言いたいのではない。内容以前に掲載される紙媒体が消えていっているのだ。大手の美術専門誌の展評記事もウェブへと移行し、文字組された紙の美術批評を頻繁に読めるのは新聞くらいになってきたのかもしれない。しかし、いまや新聞の発行部数も落ち込んでいる。そんな新聞が新しいマスメディアであった時代、小説記者として活動した夏目漱石の美術批評を探究した意欲作が、ホンダ・アキノによる本書『夏目漱石 美術を見る眼』だ。  筆者にとって、漱石といえば千円札のおじさんであり、『こころ』や『三四郎』を書いた文豪であり、朝日新聞の記者である。ここまでは誰もが知るところと思われるが、ホンダは漱石の書いた美術批評に着目する。もちろん、漱石と美術をめぐっては、本書でも紹介のあるとおり、これまで芳賀徹の『絵画の領分』など、小説と美術の関わりについて言及がなされてきた。しかし、本書は小説に表れる美術作品の分析にとどまらず、文展をはじめとする当時の美術界の状況や日本国家と西欧世界の社会的背景を押さえながら、その渦中にいた夏目漱石という作家の活動を捉えていく。漱石が寺田寅彦など友人や知人に送った書簡、そして漱石による芸術論が展開された「文展と芸術」を中心に、その美術批評の丁寧な分析が試みられていく。ホンダの的確な相の手で「美術の門外漢」による独自の芸術観が頁をめくる毎に明らかとなってくる様は実に面白い。漱石が美術展のみならず、画集においては造本や装幀、印刷、製本、紙質に至るまで細部に目を配って書いていることには驚かされたし、『こころ』の装丁を自らの手でなしたというエピソードからは、その創作意欲の深さを窺い知ることができよう。  本書は、「文展と芸術」に書かれた「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」という一文を発端として、そこに込められた漱石の自己本位の精神を探っていく。偏らず幅広く同時代の芸術へと目を配る姿勢、自らの論を自らのことばで最大限に展開する批評のあり方、「天才」と評した青木繁への視座にある技量とは別の価値をみる広さ。  「美術の門外漢」だからこそできた美術批評とも言えるかもしれないが、筆者はそれよりも誰しもにひらかれた極めて真摯な漱石の批評の態度がみえてくることに、読んでいて奮い立つような感覚と清々しい気分が心身に迫ってくるのを覚えた。批評を書く、批評を読むというのはそういうことだと、久しく忘れていたことが恥ずかしくなるほどだ。その根底にあるのが漱石の貫いた「自己の表現」であり、これこそが本書で漱石をここまで論じたホンダによる提示である。ホンダは漱石のいう「自己」とは、「私」や「自我」さらには「自己意識」という意味からはズレること、それは「他者ではない」という相対性から自身が立脚する「自己本位」にあると指摘する。  イギリス留学でさまざまな「他者」の文学に触れ、明治四〇年に東大教授という権威的な地位を蹴って野に下った漱石は、小説記者として活動を始める。近代化を自らのこととして引き受け、新聞という新しいマスメディアにおいて、時代とともに芸術に向き合った漱石の文章は、決して独りよがりなものではない。「他者」への敬意からこそ生まれるブレのない「自己の表現」であるからこそ、今も人びとを魅了するのだろう。本書において、漱石の美術批評という「本職ではない」仕事を窓口としたことで、ホンダは見事に「漱石の生きる姿勢」「漱石の本質」を捉えており、そこからまた小説という創作へと向かった漱石の「内面的世界の豊富さ」を改めて見出している。  速さを増すSNSのことばの濫出の時代にあって、日本の文芸はこの先どのようなスタイルを見出すだろうか。どうあれ、わたしたちは、一〇〇年前に漱石が獲得した「他者」への敬意とともにある、揺るぎない自己本位の精神を覚えておくべきだろう。本書は、そこへと向かう窓口として新たな方法を提示してくれるとともに、文学や諸芸術に関わるものだけでなく、漱石をとおして誰しもに「自己の表現」の本質と面白さを教えてくれるはずだ。(ほそや・しゅうへい=和光大学客員研究員・戦後文化研究)  ★ホンダ・アキノ=奈良女子大学卒業後、京都大学大学院で美学美術史を学ぶ。修士課程を修了し新聞社に入社。支局記者を経て出版社へ。雑誌やムック、書籍の編集に長年携わったのちフリーとなる。著書に『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』など。大阪府生まれ。

書籍

書籍名 夏目漱石美術を見る眼
ISBN13 9784582839753
ISBN10 4582839754