滅びゆく惑星で 第14回
増田俊也
趣味にしているわけではないけれど、盆栽を見ると、時々ほうと息をついてしまう。手のひらに乗るほどの鉢のなかに、幹があり、枝が張り、根方に苔が湿り、崖に耐える老木の姿がある。数十センチの高さに、何百年もの風雪と、それに耐えてきた一本の樹の一生が畳み込まれている。
世界をまるごと一本の小さな樹木に表現する。この手法は、小説という企みによく似ている。小説というのは、要するに、この世の膨大な何かを一冊の本の大きさにまで縮めて封じ込める作業である。人間の一生も、時代のうねりも、そのままでは大きすぎて手に負えない。それを削り、曲げ、間引いて、読者の手のひらに乗る大きさにする。盆栽師が針金で枝を矯めるのと、小説家が余計な描写を切り捨てるのと、やっていることの根はそう変わらない。
ここで一度、立ち止まってみる。しかし本当に似ているのだろうか。盆栽は生きている。切っても曲げても、樹はそのあとも自分の意志で伸びようとする。作り手の思いどおりには決してならない。小説の言葉は、いったん書いてしまえば動かない。ここは決定的に違うではないか、と一度は思う。
ところが、と私はまた考え直す。優れた小説の登場人物というのは、あるところから作者の言うことを聞かなくなる。書いているうちに勝手に動きだし、勝手に喋りだし、作者が用意した筋を平然と裏切っていく。私も何度もそれをやられてきた。あれは盆栽の枝が、矯めた方向とは違うほうへ芽を伸ばしてくるのと、そっくりではないか。生きているものを相手に、こちらの都合を半分だけ通す。その半分しか通らないもどかしさまで含めて、両者はやはり似ているのだ。
盆栽が誰が始めてどのように定着したアートなのかわからない。おそらく最初は、山で見つけた面白い形の苗木を、ただ鉢に移しただけの素朴なものだったろう。それが長い時をかけて、いまのような究極の様式にまで磨かれた。一人の天才が完成させたのではない。手法を工夫し、ほんの少し前へ進め、それを次の世代へ黙って渡した無数の無名の人々がいたからこそ、この芸は今の高さに達している。
名の残らなかった者たちが積み上げた技の総体が、あの一鉢に凝っている。そう思って眺めると、盆栽はもう一本の樹ではない。何百年ぶんの、名もなき人々の手つきそのものである。小説もたぶん同じで、私が一冊を書けるのは、先に無数の書き手が言葉の矯め方を残してくれたからにすぎない。私もまた、次の誰かのために、枝を一本、ほんの少し曲げておくだけの存在なのだろう。それで十分な気もしている。優れた盆栽を見るときの小さな感動。あの一瞬のなかに、たぶんそれは全部入っている。(ますだ・としなり=小説家)
