2025/10/31号 3面

未来への負債

未来への負債 キルステン・マイヤー著 戸谷 洋志  本書は、主として英米圏の政治哲学における世代間正義の文脈に定位しながら、未来世代への責任のあり方を論じた著作である。世代間正義は主として1970年代以降に議論が蓄積されてきた領野であり、その論点は多岐に及ぶ。気候変動への危機感が強まる今日において、改めて注目を集めつつある分野である。本書は、明確で限定的な問題意識に導かれながらも、そうした広大な議論を概観し、それに対する一つの見通しを提示する点で、刺激的かつ啓蒙的な著作であると言える。  本書の主題は、未来世代への責任について、広く一般に受け入れられている十分主義のテーゼの妥当性を認めながら、それに付随すると思いこまれているところの、追加の否定的テーゼを批判する、ということである。十分主義とは、現在世代が、「ある一定の充足の閾値より上の生活を送ることができる」(11頁)ことへの責任である。一方、追加の否定的テーゼとは、現在世代がその「閾値以上のものについてはなんら責務を負っていない」(11頁)と考えることに他ならない。追加の否定的テーゼは、現在世代が未来世代に対して引き受けるべき責任の範囲に制約を設け、それによって前者が後者に対して行使する暴力の一部を容認することになる。  これに対して本書は、より厳しい規範を現在世代に対して要求する。それは、先行する世代が保存してきた資源を、未来世代も現在世代と同じように利用できないような仕方で搾取することは、道徳的に許容されない、というものだ。なぜならそれは、先行世代が資源の保存に関して遵守してきた規範に対して、現在世代が従わないことを意味するからである。本書は、こうした規範を基礎づけるために、「時間を超えて広がる人類の一員として自己をみる」(159頁)自己理解の必要性を訴える。そうした見地に立つとき、未来世代にとってそれ以上の配慮を必要としない閾値を恣意的に設定することは許されず、現在世代は未来世代に対して劣った状態で地球環境を残すこと自体が、一種の道徳的な違反として説明される。こうしたアプローチは「強い平等主義的要求」(197頁)とも表現される。すなわち、各世代は人類という一つの共同体の構成員として、平等であらねばならない、ということである。  こうした見方は、魅力的であると同時に、次のような異論にも遭遇しうる。すなわち、各世代を構成員とする人類全体という共同体を想定し、かつ、そこに世代間の行為を統御する普遍的な規範を想定することが、果たして可能なのか、ということだ。  たとえば本書において、先行世代が、悪霊から未来世代を守るために樹木を伐採する、というケースが検討される。このとき先行世代は、たしかに未来世代への責任を果たすために行為している。しかし、これは原始的な社会における規範として相対化されるため、現在世代がこの規範に従う必要はない。これに対して、「未来世代の自然な生命維持に悪影響を及ぼすような私たちの行為については、そうであるがゆえに、なんらかの正当化を要求できる」(153頁)。ここでは、普遍的な妥当性を要求しうる規範が、その自然性を根拠に基礎づけられている。しかし、こうした想定は素朴すぎるようにも思える。何が自然であるのか、ということ自体が、文化的に構築される性質であると考えることもできるからだ。たとえばそれは、本書で繰り返し引用されるイマヌエル・カントが、異性愛が自然であり、同性愛は反自然的であるとして非難していることからも、自明であるように思える。  とはいえ、この問題は未来世代への責任に平等主義の視点を導入し、その基礎づけと理論化を試みた本書の功績を、無にするものではない。SDGsをはじめとして、未来世代への責任がある種のキャッチフレーズであるかのように叫ばれている今日においてこそ、本書は具体的な実践のあり方を探る重要な手がかりとなるだろう。(御子柴善之監訳)(とや・ひろし=立命館大学大学院准教授・哲学・倫理学)  ★キルステン・マイヤー=ドイツの哲学者。フンボルト大学教授。規範倫理学、応用倫理学、政治哲学、教育哲学、哲学教授法などを専門とする。著書に"Der Wert der Natur. Begründungsvielfalt im Naturschutz"など。一九七四年生。

書籍

書籍名 未来への負債
ISBN13 9784409031421
ISBN10 4409031422