ながい窖
手塚 治虫著
相川 拓也
本書は、手塚治虫の短篇漫画「ながい窖」に、充実した作品解説を付した一冊である。「ながい窖」は、一九七〇年一一月に『サンデー毎日』に掲載され、一九七二年に単行本『空気の底』下巻(朝日ソノラマ)に収録されたものの、その後の『手塚治虫漫画全集』(一九七七〜一九九七)や『手塚治虫文庫全集』(二〇〇九〜二〇一二)には収められず、事実上の封印扱いとなっていた。本書に収録された「ながい窖」は『空気の底』版の原稿をスキャンしたもので、同版の誤字一か所が初出に合わせて修正されている。
「ながい窖」は、日本での在日朝鮮人差別を正面から扱った作品として、熱心な読者のあいだではよく知られていた。主人公の森山は日本国籍を取得した在日朝鮮人だが、出自を隠し、日本社会に徹底して同化することで会社重役に登りつめ、妻と、大学生の娘の亜沙、高校生の息子の久とともに東京で裕福な生活を送っている。森山は一方で、戦時中に強制徴用され、岐阜・戸狩山で地下壕を掘る労働に従事していた過去がある。ある日、地下壕での死と隣り合わせの労働をともに生き抜いた友人・金文鎮の紹介で、除英進(姓は「徐」の誤記か)という青年が森山の前にあらわれる。英進は旧満洲国・延吉出身で、戦後すぐに日本人と思しき父について日本へ渡った母親を探すため、東京へやって来ていた。不法入国者として収監された収容所を脱走し、警察に追われる身である英進を、森山はしぶしぶかくまうことになるが……。
日本社会での在日朝鮮人差別、戦時期の強制徴用、戦後の朝鮮人の離散と日本の入国管理体制の問題など、「ながい窖」の物語に関する歴史的文脈は多岐にわたる。四方田犬彦、本浜秀彦、神谷丹路、林晟一、李英美による解説と、編集部による李鳳宇へのインタビューは、作中のさりげない台詞や描写に込められた意味を理解するのに優れた示唆を与えてくれる。
四方田や神谷が指摘するとおりやや習作的な面もある本作だが、意欲作であり魅力的な部分は数多い。なかでも、物語の中で恋仲になる英進と亜沙、出自を隠す父への反抗から朝鮮高校への転校を決断した久の姿は印象深い。特に注目されるのは、彼らが交わす言葉の描写である。英進ははじめ、たどたどしい日本語に朝鮮語を混ぜて話す人物として登場するが、亜沙との仲を深めるにつれ、流暢な日本語で、自由に往来できる世界への夢を語るまでになる。一方の久は、言葉が上達したら校内の自治会の仕事をしてみたいと、朝鮮語で級友たちと語り合う(朝鮮語の台詞はすべてハングル表記。神谷による解説で日本語訳を参照できる)。手塚治虫の作品には、異質な他者どうしが惹かれあい、対話を通じて心を通わせようとするエピソードが多く見られるが、「ながい窖」に登場する英進や久もその系譜に連なる存在と言えるだろう。対照的に、人前で朝鮮を連想させる物事に遭遇するたび、戦時中の労働現場で朝鮮人であることを罵しられながら折檻された記憶がフラッシュバックし、激しく動揺する森山の姿には、差別をかいくぐるための同化が、精神的な緊張をどれほど強く、また永続的に強いるものであるかを見て取ることができる。「ながい窖」という表題が指し示すのは、森山がかつて働かされた地下壕である以上に、「日本語を話す、日本名を持った日本人でなければならない」という同化の強迫観念そのものなのではないか。
父と対比的に提示された二世の生き方が、物語の展開の中で中絶させられているのは、本作が日本の現実に対して厳しい批判を向けていることの証だろう。李鳳宇の回顧や林の解説で示されているように、久が日本の高校生から集団暴行を受けるエピソードは、本作が発表された一九七〇年前後の日本で実際に同様の事件が頻発していたことを反映している。「ながい窖」は、そうした暴力を駆動させる差別を、不当で醜いものとして描く作品である。陳腐化した差別が広がった二〇二〇年代の日本で、本書が刊行されたことの意義は大きい。(四方田犬彦・本浜秀彦・李鳳宇・神谷丹路・林晟一・李英美解説)(あいかわ・たくや=東京大学助教・朝鮮近代文学)
★てづか・おさむ(一九二八―一九八九)=漫画家。代表作に『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』『アドルフに告ぐ』など。
★よもた・いぬひこ=詩人、映画・比較文学研究家、エッセイスト。一九五三年生。
★もとはま・ひでひこ=文教大学教授・比較文学・メディア表象論。一九六二年生。
★リ・ボンウ=映画会社スモモのプロデューサー兼CEO。一九六〇年生。
★かみや・にじ=日韓関係研究・翻訳家・大学非常勤講師。一九五八年生。
★はやし・せいいち=評論家。一九八一年生。
★リ・ヨンミ=京都大学助教・歴史学。一九八八年生。
書籍
| 書籍名 | ながい窖 |
| ISBN13 | 9784588420245 |
| ISBN10 | 4588420240 |
