舞城王太郎著『深夜百太郎』を読む
太田 靖久
本書の帯に「完本出来! 百話収録!」とあるように、同社の既刊『深夜百太郎 入口』と『深夜百太郎 出口』の各五十話をまとめた一冊だ。合本であるだけではなく、「百」の数字にも意味があると思われる。
日本の伝統的な怪談会に百物語がある。怪談話を一話ずつ語る中、百話を終えた後に本物の怪が現れるとされる。「百」は百物語に倣ったものであり、本書はその様式を現代の読書体験へと置き換えているのではないか。
明治生まれの小説家の岡本綺堂は劇作家としても名高いが、怪奇文学も物しており、「百物語」と題した作品を残した。そこから怪談会の様子がうかがえる場面を引く。
秋の夜に若侍どもが夜詰めをしていた。きのうからの雨のふりやまないで、物すごい夜であった。いつの世もおなじことで、こういう夜には怪談のはじまるのが習いである。そのなかで、一座の先輩と仰がれている中原武太夫という男が言い出した。
「むかしから世に化け物があるといい、無いという。その議論まちまちで確かに判らない。今夜のような晩は丁度あつらえ向きであるから、これからかの百物語というのを催して、妖怪が出るか出ないか試してみようではないか。」
このまま本書の序文に据えても収まりが良いように思えるし、「いつの世もおなじ」ように怪談話は人々を魅了することがうかがえる。
本書の構成に目を向けると、一話ごとに「一太郎」、「二太郎」、「三太郎」と数字が増え、その下に各タイトルがある。読者自身が百物語の参加者になっていて、最終話で「百太郎」に出会う。これが「出るか出ないか」と噂される「妖怪」を表しているのだろう。
「一太郎 アナタタ」が本書の一話目である理由を考えたい。「アナタタはあなたが外に出かけるとき、家や自室にそっと残るあなたの分身である私」であり、「あなたが部屋に、家に、帰ってくると、私は消える」という。
「アナタタ」は、この書籍そのもののメタファーであると感じた。「部屋に、家に、帰ってくる」とは、書籍を開いて読書をしている状態を指す。読書をしている時、書籍の存在感が消えて物語が立ち上がる。一方で読書を止めた時には物体としての書籍が再び現前するという解釈だ。
つまり、本書を読んでいない時に「アナタタ」が登場してしまうから、これを消すためには本書を読み続けなければならない。そうすると必然的に「百太郎」を召喚するに至る。巧妙な仕掛けであり、読者への呪いでもあるだろう。
この呪われた世界では、死者から電話がかかってきたり(「十一太郎友達の部屋」)、首吊り死体がストーカーになったり(「四十五太郎 高架下の首吊りストーカー」)、拷問をする鬼が電車に乗っていたり(「六十六太郎 次の電車」)と、怪異のバリエーションが豊富である。その最後が「百太郎 ワタシシ死」だ。見知らぬおじさんに殺された二十八歳の「私」が「ワタシシ」として生まれ、十三歳の《私》を見守る存在になり、「私」から逃れられない無間地獄のような状態に陥る。明確な因果は説明されないため、不穏さが増す。
本書が「アナタ」からはじまり「ワタシ」で終わると気づいた時、『怪異の表象空間 メディア・オカルト・サブカルチャー』(二〇二〇年、国書刊行会)で著者の一柳廣孝氏が語る内容を思い出した。
怪異は、私たちのイメージの投影として立ち現われる。私たちにとってもっとも恐ろしいモノが、それにふさわしい形を纏って顕現する。ならば怪異は、自己認識の問題となる。またそれはしばしば、自己を定位するのに不可欠な他者との関係性の問題となる。したがって怪異という問題系は、自己とは何かという問いになると同時に、他者とは何かという問いと結びつく。
「もっとも恐ろしいモノ」の正体が「他者」=「アナタ」だと思い込んでいた中、「自己とは何かという問い」こそが真の恐怖なのだと突きつけられたようで身震いした。本書読了後に立ち現れる「妖怪」とは、ほかならぬ「私」自身だ。(おおた・やすひさ=小説家)
★まいじょう・おうたろう=作家。『煙か土か食い物』でメフィスト賞を受賞しデビュー。著書に『阿修羅ガール』(三島由紀夫賞)、『淵の王』(Twitter文学賞1位)、『好き好き大好き超愛してる。』『ディスコ探偵水曜日』『短篇五芒星』『私はあなたの瞳の林檎』『短歌探偵タツヤキノシタ』など。一九七三年生。
書籍
| 書籍名 | 深夜百太郎 |
| ISBN13 | 9784867320396 |
| ISBN10 | 4867320390 |
